瀬田川沿いの道路端に建つ石碑と説明板
古来よりの軍事・交通の要衝「瀬田の唐橋」を掌握する山岡氏の居城
別名
山岡城
所在地
滋賀県大津市瀬田2丁目13-26
【アクセス】
「唐橋東詰」信号から県道29号を300mほど南進した左手(東側)に石碑・説明板が立っている。その上に建つマンション「グランスイート近江臨湖庵」周辺が城跡。
形状
平城
現状・遺構等
【現状】マンション
【遺構等】石垣、石碑、説明碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2011/02/23
歴史等
瀬田城は、永享元年(1429)に甲賀武士の流れをくむ佐々木氏家臣山岡景房が築いた。
山岡氏は、その後、9代の景隆に至るまで勢多に居住した。景隆は織田信長に仕え、3万石を領した。
天正10年(1582)の本能寺の変後、明智光秀は安土城を取ろうとし、安土へ向かう途中、景隆を味方にしようとしたが応ぜず、瀬田の唐橋を焼き、瀬田川西岸の舟を集めて川を渡れないようにして対抗したが、橋は光秀によってただちに修復されてしまい、景隆は城に火を放ち甲賀へ引き上げた。
以来、瀬田城は廃城となった。
『現地説明板、説明碑他参照』
現況・登城記・感想等
瀬田川は、琵琶湖から注ぎ出る唯一の川で、東から京都へ向かうには瀬田川か琵琶湖を渡るしかない。
瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われ、671年の壬申の乱での大友皇子と大海人皇子の最後の決戦に始まり、藤原仲麻呂の乱、源平合戦の源義仲対平家、源義経対義仲の合戦、承久の乱、足利直義の率いる足利軍と朝廷軍の建武の戦い等々、幾度もの合戦があった。
本能寺の変後には、明智光秀が安土城を攻めようとしたため、山岡景隆が瀬田の唐橋を焼いてこれを阻止しようとしたが、橋は光秀によってただちに修復されてしまい、景隆は自ら城に火を放って逃げ、以来、廃城となったという。
今では、城跡にはマンションが建ち、道路端に石碑・説明碑・説明板が立つだけだが、瀬田川は、唐橋のほかに、国道1号線、名神高速、東海道本線、新幹線などの幹線が渡る交通の要衝であることに変わりはない。
尚、説明板に「今はわずかに石垣を残すばかりである」とあったが、石碑の後ろの石垣がそれだろうか?? それにしては、らしくないが・・・?
(2011/02/23訪れて)