近江 水茎岡山城(近江八幡市)

大山山頂部の曲輪の東側を断ち切る大規模な堀切

京から逃れてきた足利11代将軍義澄を迎えた城、12代義晴も当城にて誕生

所在地

滋賀県近江八幡市牧町
【アクセス】
「特別養老老人ホーム水茎の里」の前を100mほど西進すると左手に「名勝水茎岡」と刻まれた石碑が立ち、その横に山上へ一直線に伸びる石段が見える。この石段を登って行く。石碑の前の道路が広くなっているので、そこに駐車した。
特別養老老人ホーム水茎の里:近江八幡市牧町1885番地、電話0748-33-5321

形状

山城(標高187.7m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】曲輪、土塁、石積み、堀切、竪堀、土橋、石碑

満足度

★★★☆☆

訪城日

2011/02/23

歴史等

水茎岡山城(すいけいおかやまじょう)は、南北朝時代に佐々木六角氏の湖上警護の支城として築かれたといわれる。
本格的な築城は、永正5年(1508)に足利11代将軍義澄が前将軍義稙(義材・義尹)の入洛を恐れて近江に逃れた際、伊庭、九里氏を頼って当城に入城した頃に始まったのではないかと考えられている。
城主九里氏は、九里村土着の豪族で、応仁・文明の乱(1467~77)に戦功をたてた九里美作守賢秀を祖とし、その孫信隆の頃、義澄を迎え、これを守護して戦備に狂奔した。
3年後の同8年(1511)2月には12代将軍義晴が生まれたが、同年8月には京に攻め上がった義澄が、敗走して帰城の後、当城にて急逝した。
同じく、11年、佐々木六角氏の謀略によって信隆は殺され、その子浄椿(じょうちん)が城主になったが、6年後の同17年(1520)、佐々木六角定頼の奇襲を受けて同城は開城した。
その後、九里氏の残党は九里三重郎を盟主にして、再度当城に立て籠もり、大永5年(1525)の黒橋の戦い(現近江八幡市西の庄町黒橋)において佐々木六角氏と合戦し、討死して九里家は滅亡し、廃城になったとされる。
『「日本城郭大系11」、「近江の山城 ベスト50を歩く(サンライズ出版刊)」』

現況・登城記・感想等

水茎岡山城は、琵琶湖に面した頭山(標高147.8m)とその南に位置する大山(標高187.7m)にそれぞれ分布する。1946年に干拓事業で水茎内湖が埋め立てられるまで、内湖に囲まれた「湖中の浮城」として知られていたそうだ。
「日本城郭大系11」等、史料によっては頭山が主郭と書かれたものもあるが、現在では大山を主郭とするのが通説のようで、大山の山頂部一帯には遺構が良好に残存する。
最高所には2つの長方形の曲輪があり、その間は堀切で断ち切られ、中央にある土橋によって連絡している。曲輪の周囲は切岸が巡っており、その下は腰曲輪で囲まれている。
また、東側の曲輪の東端にはL字型に土塁が確認でき、その東側にも堀切が掘られている。この堀切は、深さ約10m、上部幅20m近い大規模なもので、見応え充分で、この城跡の最大の見どころだろう。ついつい何枚も写真を撮ってしまった(笑)。
山腹南斜面に大規模な竪堀が存在するというので、強烈な藪の中を降りて見に行ったが分からなかった。そして、南麓にあるという雛壇状の曲輪群は入って行く所が分からなかった(汗)。また、頭山と大山間の間の鞍部の居館跡とされる遺構や、水資源開発公団琵琶湖開発事業による著しい破壊が進むという頭山山頂部も時間の関係で、次回に持ち越し・・・。
(2011/02/23登城して)

ギャラリー

石碑
「特別養老老人ホーム水茎の里」の前を100mほど西進すると左手に「名勝水茎岡」と刻まれた石碑が立ち、その横に山上へ一直線に伸びる石段が見える。尚、「水茎岡山城址」の石碑が、ここをさらに西へ廻っていった所(頭山との間)にあるらしいが見損ねた(汗)。
01石碑

一直線に伸びる石段
上写真の石碑左前方のかなり急な石段を、ひたすら登って行く。
02登城道石段

土塁
石段を10分ほど登ってくると、幅5m~10mほどの土塁(写真左)に出る。今は水道関係の施設か何かがあり立ち入り禁止になっている。
05平坦地

眺望① 琵琶湖を見下ろす
石段を登りきった所(上写真土塁下)から振り返って下界?を見下ろすと琵琶湖が真下に見える。
03眺望

眺望② 頭山を
西の方を見ると、琵琶湖に面する頭山が見える。
04頭山

眺望③ 近江八幡城
東の方には近江八幡城(写真右側の山)が望める。
04八幡城

さらに登る
土塁のところから、さらに山道を登っていく。3分ほど登って行くと尾根の上に着く。
06登城道

大堀切
尾根の上を西へ1~2分ほど進むと堀切が見えてくる。深さ約10m、上部幅20mはあろうかという大規模な堀切で見応え充分だ。
07大堀切

大堀切の底にて
08大堀切1

大堀切を振り返って見下ろす
あまりの見事さに何枚も写真を・・・。TOP写真も同じアングルで撮ったもので、そこには堀底にいるMっさんが小さく見える。
08大堀切2

東曲輪東端の土塁
大堀切を登りきったところにある曲輪の東端から南側にかけてL字型に土塁が確認できる。土塁は、基底部で幅約3m、高さ1.5m前後、長さは20m近くある。左側(東端)から右(西)へと伸びているが、写真では分かり辛いですね(苦笑)。
09土塁

東曲輪
この写真も分かり辛いかもしれませんが、左(南)側を奥(西)へと上写真の土塁が伸びていっている。
10東郭

曲輪間の堀切
この堀切の規模も結構大きいのは、西側の曲輪への虎口の所(写真右上)に立つMっさんを見れば分かると思います。この堀切のほぼ中央には土橋が確認できる。
11堀切

西曲輪
この曲輪も細長い。北側(写真右)の腰曲輪が良好に残っているのが見える。
12西郭

腰曲輪と琵琶湖
西曲輪北側下の腰曲輪の向こうには琵琶湖が見えた。これも冬の登城の恩恵!?
13腰曲輪

西曲輪北側の切岸と腰曲輪
曲輪の周囲は切岸が巡っており、その下は腰曲輪で囲まれている。中でも、西曲輪の北側の腰曲輪は広く、また整備もされており、降りていった。
14腰曲輪

東曲輪南側の腰曲輪
縄張図にある山腹南斜面の大規模な竪堀を見に、下山時に、東曲輪下の強烈な藪の中の腰曲輪へ降りて行った。
15腰曲輪の藪

山腹南の急斜面(汗)
藪の中を西へ東へと捜したが、南側斜面はただただ急斜面が見えるだけで、竪堀らしきあとは見付からなかった(汗)。
16藪

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