主郭西側の石垣
佐々木氏の氏族・鏡氏の居城、観音寺騒動の際に六角承禎が立て籠もった
別名
星ケ峯城、鏡山城
所在地
滋賀県蒲生郡竜王町鏡、滋賀県野洲市大篠原
【行き方】
登城口は2ヶ所あり、一つは「道の駅・竜王かがみの里」の南東端のフェンスにある扉を開けて、民家の前を直進し、突き当たりの建物
(寺らしいが?)の背後に廻り、さらに進むと石灯篭や宝篋印搭のところへ出る。その右奥に説明板が立ち、登城道がある。
二つ目は、道の駅の北側を走る国道8号線を西進すると、左へ入る旧中山道がある。そこを入って150mほどの所の山側の空地に説明板が立っている。
ここが登城口であるが、よほど気をつけていないと見落としやすい。
形状
山城(標高247m、比高130m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、石塁、井戸、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2010/01/27
2010/02/07
歴史等
伝承によると、星ケ崎城の築城者は在地土豪の鏡氏であるとされるが定かではない。
鏡氏は、佐々木定重を祖としており、その子久綱が鏡庄を領して鏡氏を称した。この久綱は承久3年(1221)の「承久の乱」
に倒幕軍として出陣し、尾張で討死したため家系は絶えてしまった。
その後、京極宗家の子左衛門尉貞氏が鏡姓を継ぎ、代々、佐々木氏の旗頭をつとめた。
永禄6年(1563)、六角氏の有力な家臣永原氏などが叛旗を翻した観音寺騒動の際に、六角承禎を当城に迎え対峙したという。
その後、織田信長に敗れ廃城となった。
『「日本城郭大系11」、「近江の山城・中井均著(サンライズ出版刊)」、「現地説明板」参照』
現況
星ケ崎城址は鏡山から北に延びる尾根上に位置し、頂上部が主郭となっており、主郭上には城址碑が立っている。
西側と南側の切岸には、高さ2m強、長さ約30mほどの石垣が残っている。
また、南側には虎口らしき石の配列がある。東側と北側の往時は石垣が築かれていたのかもしれないが、
雪に覆われて石垣の残存は見つけられなかった。
主郭の北側と南側も、削平はあまいものの曲輪らしく、北側の曲輪には井戸跡があった。
主郭から延びる北西及び南西の尾根には堀切などの防御施設もなく決して要害堅固な城とは云えないだろう。
主だった遺構といえば、石垣だけであるが、この石垣を見るために、大変な目にあった(汗、冷や汗、苦笑、笑・・・)
(2010/02/07)
登城記
星ケ崎城攻略は本当に手こずり、2度に渡る執念の登城であった。
まず、一度目
【2010/01/27】 ~あわや遭難~
「ネット」や中井均氏の著「近江の山城」により、まず「道の駅・竜王かがみの里」からの登城口を探したが分からず、「旧中山道」
からの登城口を探した。
旧中山道へ入り、左手を見ながら車で進んで行ったが登城口らしき所が見付からずガソリンスタンドの前へ出てしまった。
ガソリンスタンドの西側に、山裾に沿って入って行く細い道があったので、空地に車を停めて、その道を入って行くと行き止まりになり、
そこには「平家終焉の地」の説明板と「平宗盛の墓」があり、説明板によると「平家の終焉の地は、壇ノ浦ではなく、この野洲である云々」
とあった。
いずれにしても、登城口ではなく、ここまでの道の山側も強烈な藪ばかりで登って行けるようなところは見付からなかった。
城址である山は、写真により、ほぼ特定できているので、車で山の西へ大きく廻ったら、山の中へ入って行く道があった。
道の入口はチェーンで閉ざされているが、歩いて入って行けるようだったので、そこに車を停めて、山の中へ入って行った。
途中から道がなくなったが、尾根の上を登って行けそうだったので、藪こぎをしながら強引に登って行くと尾根の上へ出た。
ところが、ここからが分からない。取り敢えず、痩せ尾根の上を右(南)へ、どんどん歩いて行った。途中、小さな板切れに「←星ケ峯 鏡山→」
とあった。後日、分かったことだが、星ケ峯へ向かって歩いて行けば主郭へ辿り着いたのだが、鏡山の支峰だとばかり、鏡山へ向かって歩いた。
狭い所では幅30cm、広い所でも幅2mほどの痩せ尾根の急坂を登ったり下りたり、行けども行けども尾根が続く。
こんなに延々と続く尾根は初めてだ。
途中に、明らかに人工的な石垣が見付かったが、城址とは関係なさそうだ。
結局、諦めて下山することにしたが、尾根を戻るのはあまりにも時間が掛かると思い、そこから下りて行ったが、
最後は水がいっぱい流れる沢へ出てしまい、そこは周囲を山に囲まれていて、とても下山できそうにない。
結局、最初に登って来た所へ戻って下山することにした。ところが、既存の道を登って来たわけでなく、登って来た場所が分からない(汗)。
適当に、下りれそうな所から、2度、3度下りて行ったが、途中から沢状になり、羊歯だらけで、下りて行けなくなってしまい、
尾根の上まで戻る。おまけに藪漕ぎをしながらの下山なので、途中で蔓に両足を取られてぶっ倒れたり・・・(泣)
山中に入ってから、4時間近く経ってしまった。一緒に登ったMっさんは、携帯でHELPを呼ぼうと言ったが、その前に、
もう一度だけチャレンジしようと言って、下りて行った。そして、何とか無事?下山。
4時間半の遭難だった(汗)
Mっさんに、「ところで、HELPって、何処に電話するつもりだったの?」と尋ねたら、何と「110番」だと(苦笑)。
「119番じゃないの?」と私(苦笑)いずれにしてもミットモナイよね。
くたくたになってしまったが、まだ2時30分だ。折角、遠く滋賀県まで来たのだ。これで今日一日を終わってしまったら勿体ない。Mっさんに、
「このあと一箇所だけでも登城する元気は残っている?」と尋ねたところ、「ある」ということだったので、甲賀の三雲城へ・・・。
【2010/02/07】 ~執念の登城~
昨日からの生憎の大雪で、積雪の中をリベンジを誓っての登城だ。
「道の駅・竜王かがみの里」に観光案内所があることが分かり、登城口を教えてもらった。そして「道は整備されていますが、
急坂なので気をつけて登って下さい」と言われた。
道の駅の南東端のフェンスにある扉を開けて、民家の前を直進して行くと、正面に建物が立ちはだかっている。その左手前に道があったので、
躊躇せずに入って行った。
しばらく歩いて行くと、檻?籠?が・・・。どうやら、イノシシ捕獲用の仕掛けらしい(汗)
あまり良い気持ちはしないが、構わず進んで行くと、だんだん道が怪しくなってきたが、堀や土塁、土橋のような地形が見えてきた。
変だとは思いながらも、さらに奥へ進んで行くと、山側に何段にもなった石積みが見えてきた。ひょっとすると城址遺構かな・・・?
それにしては整いすぎているが? そして、そこから上には、雪がなければともかく、とても登って行けそうになかった。
道も整備されていないし、少なくとも教えてもらった道ではなさそうだ。
止むを得ず、先ほどの正面に立ちはだかっていた建物のところまで戻り、建物の背後へ廻ってみると、奥へ進む道があったので、
そこを行くと石灯篭や宝篋印搭のところへ出た。そして、その右奥に星ケ崎城の説明板が立ち、その奥に道もあった。遂に、
本当の登城道を見つけたのだ(^^)
ここから先は、ギャラリーの中で・・・。
ギャラリー
登城道
登城道をしばらく進むと、急な坂道となると同時に積雪も20cmほど・・・(汗)
気をつけながら登って行くと、尾根へと出た。尾根道を、進んで行くと、さらに急な坂道に・・・。ただでさえ、
急坂のためロープまでついている坂道に雪が・・・(汗)
頂上に・・・。主郭?
尾根に登り切ったところから登ること7~8分、NHKのアンテナが立っている頂上部へと出た。一瞬、
遂に主郭に到着と思った。ところが、頂上部の周りを見ても、目当ての石垣が見当たらない。雪で隠れているようでもない・・・?
古びた小さな案内板が
Mっさんが、東に続く尾根を下りて行ったところに、古びた小さな「星ケ崎登り道」
と書かれた案内板を見付けた!この案内板を見つけなかったら戻ってしまったかも!?
切岸の上部に石垣が
案内板の所から、しばらく緩やかな坂道を下りて行くと、また登り道になり、
しばらく登って行くと右上に切岸が見え、その上部に石垣が見えてきた~!!やった~(^^)
主郭西側(北部分)の石垣
石垣は、西側から南側へと続き、西側の石垣は高さ2m以上、長さは30mほどあり、なかなか見応えがある。
石の大きさは、縦40~70cm、横80~120cmと、かなり大きめの自然石や割り石が用いられている。
主郭西側(南部分)の石垣
北部分が良好に残るのに対して、南部分はかなり崩れている。
主郭南側には虎口が?
かなり崩れている上、積雪のため分かり辛いが、南側にも石垣が残り、虎口になっているようだ。
主郭虎口から南の曲輪を
虎口の上から南の方を見ると、あまい削平ながら尾根上に曲輪が確認できる。
主郭上の城址碑
主郭の広さは、約55m×約25mで、昭和11年に建てられた城址碑が立っている。
北側の曲輪には井戸跡が
主郭の北側にも、あまい削平ながら曲輪があり、井戸が・・・。調査中らしく、グリーンシートで囲われていた。