周囲を土塁で囲まれた主郭
甲賀郡中惣の城の一つ、寺前城との二城連結城
所在地
滋賀県甲賀市甲南町新治
【行き方】
県道337号線の新治口信号を東へ入ると、すぐ右手に説明板と標柱がある。そこが村雨城への登城口。駐車場はないので、
道端ぎりぎりに停めた。
形状
平山城(丘城)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、虎口、土塁、空堀、標柱、説明板(登城口と寺前城の東側・大谷池の手前の2箇所にある)
満足度
★★★☆☆
訪城日
2010/02/06
歴史等
中世後期、甲賀の小領主たちは、同じ名前を名乗る一族同士で血縁的な結合を強め、同名中惣を組織していた。
永禄から元亀の頃になると、その連合が甲賀全域に拡大し、甲賀郡中惣が結成された。
同名中惣内部では、総領家を中心としながらも、その力は絶対的なものでなく、分家に当る庶子家の自立度は高く、それぞれに城を構えていた。
そして、他所の一揆衆との間に争乱が起これば、一味同心に合力して戦うことなど、有事の際の具体的な行動が、
一族内の取り決めとして定められていた。
同規模の武士団が連合し合った郡中惣という枠組みの中では、甲賀郡を一円的に掌握する突出した領主は現われず、そのため同じ規模、
同じ形の城が、多く造られたものと考えられる。
村雨城(むらさめじょう)もそのような甲賀郡中惣の城の一つであるが、甲賀の城の中でも進化した築城技術が施されており、その背景には、
永禄11年(1568)の織田信長の上洛に伴い、守護六角氏が甲賀杉谷へ逃避したことにより、
この地域に軍事的な緊張が生じたことが要因であると思われる。
尚、城主などを知る記録類は残されておらず、詳細は不明である。
『「近江の山城・中井均著(サンライズ出版刊)」、「現地説明板」より』
現況・登城記・感想等
村雨城(むらさめじょう)は、寺前城(じぜんじょう)と連結する甲賀特有の二城連結城で、丘陵の先端部分にあるのが寺前城で、
その50mほど南にあるのが村雨城である。
甲賀市甲南町新治付近には、現在確認されている中世の城館が7箇所あるそうだ。いずれも方形に土塁で囲む城館で、
保存状態も非常に良いそうだが、この村雨城もほぼ完存である。
主郭は25m×20mの長方形に近い形で、周囲を土塁がめぐっている。南側の土塁は、部厚くて高く、その外側に空堀をめぐらせている。
西側に設けられた虎口への道は少し屈曲しており、虎口付近は急斜面になっている。
また、虎口の西側前方には土塁で囲まれた2段の曲輪が設けられ、曲輪の先端より下方へ緩い斜面になっている。
東側は急崖になっており、その向こう側は大谷池であるが、大谷池は近世に用水池として築かれたもので、往時は谷になっていたようだ。
北側の寺前城との間には、堀切が3条ほど設けられている。
(2010/02/06登城して)
ギャラリー
全景
手前が村雨城、奥が寺前城。
城址入口に立つ標柱
県道337号線の新治口信号を東へ入ると、すぐ右手に説明板と標柱があり、村雨城への登城口となっている。
登城道
主郭虎口への道は少し屈曲しており、虎口付近は急斜面になっている。
主郭西の曲輪
主郭虎口の西側前方には土塁で囲まれた2段の曲輪が設けられている。写真は、上の段の広い方の曲輪である。
主郭内へ
虎口から入ると、周囲を土塁で囲まれた主郭へ出る。
主郭南側土塁
主郭南側の土塁は、高いだけでなく、部厚い。往時は、櫓台か何らかの防御用の施設が建っていたのであろうか。
この写真は、東側土塁上から南側土塁を見上げたものである。
主郭南側の空堀
部厚い主郭南側土塁の外側には空堀が見事に残っている。あまりにも広いので、最初は曲輪跡かと思った。
主郭東側
東側は急崖になっており、その向こう側は大谷池であるが、大谷池は近世に用水池として築かれたもので、
往時は谷になっていたようだ。
主郭北側
北側の寺前城との間には、堀切が3条ほど設けられている。