美作 医王山城(津山市)

医王山城本丸跡に残る虎口両側の版築土塁石垣

宇喜多・秀吉勢の猛攻に2年にわたって死守し撤退させた城

読み方

いおうやまじょう

別名

祝山城、岩尾山城

所在地

岡山県津山市吉見
【アクセス】
岩尾寺の裏山が城跡で、寺の裏手に登城口があり、駐車場もあります。
岩尾寺:津山市吉見133、電話0868-29-1301

所要時間

登城口から本丸まで約25分弱。今回の総見学時間は1時間35分でした。

形状

山城(標高343m、比高約190m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀切、竪堀、標柱、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2013/11/23

歴史等

医王山城は、築城年代等について定かではありませんが、南北朝期以前に上道是次が築いたともいわれ、美作から因幡へ抜ける街道の要衝にあります。
南北朝時代、美作では山名氏と赤松氏の抗争が絶えず、山名氏は山名忠重を医王山城に配置した。
天文元年(1532)には、出雲の尼子経久が三好安芸守を将として美作に侵攻し、三好氏の居城とした。
その後、備前から美作にかけて勢力を伸ばしていた浦上宗景の兵が在城していたが、天文13年(1544)、尼子晴久は新宮党の尼子国久などに命じて、美作に侵攻し、小田草城、岩屋城を攻め落とし、さらに医王山城も落城させた。
時は移り、永禄9年(1566)、月山富田城は毛利氏により落城し、尼子氏は滅亡した。
天正年間(1573~92)に入ると、美作は毛利氏と宇喜多氏の抗争の地となった。この時、医王山城は毛利氏に属していて、毛利輝元は湯原晴綱を在番衆として送っていた。
天正8年(1580)、湯原晴綱等国人衆は宇喜多・羽柴秀吉勢の猛攻を受けたが、2年にわたって医王山城を死守し宇喜多勢は撤退した。
やがて、備中高松城合戦での毛利・秀吉の和睦により医王山城は宇喜多領となったが、しばらくは毛利勢が籠城していたという。
その後、毛利輝元の説得により開城、医王山城は宇喜多氏が領有し改修されたがやがて廃城となった。
『「現地説明板」、「日本城郭大系13」他参照』

現況・登城記・感想等

医王山城は、南北に延びた尾根の最頂部に本丸を置き、南の方へ段曲輪状に二の丸、三の丸をはじめとする曲輪を設けた連郭式山城です。
岩尾寺の裏手に登城口があり、整備された登山道を登って行きます。登山道は、1995年に地元の青壮年が中心となって保存会が結成され、整備してくれているのだという。本当に有難いです。
登城口から、25分程で山頂の本丸跡に到着します。
本丸北側の虎口両側には版築土塁の石垣が良好に残っています。また、本丸跡からの光景は素晴らしいです。
虎口から出て、Uターンするように左へ廻りこんで、南の方へ下りて行くと、二の丸、三の丸があります。
説明板に載っている縄張図によると、三の丸のさらに先の方には、堀切があり、その向こうには畝状竪堀があるようなので下りて行ったが、良好に残る見事な堀切は確認できたが、その向こうは全くの藪状態で畝状竪堀は確認することが出来ませんでした。
また、本丸の北側にも、畝状竪堀があるようですが、かなりの藪の上、先に登った矢筈城の疲れもあり突入を断念しました(/。ヽ)。
(2013/11/23登城して)

ギャラリー

医王山城縄張図(現地説明板より)
医王山城縄張り

登城口
岩尾寺の裏手にある駐車場に縄張図付きの説明板が立ち、その横に登城口があります。
01登城口

獣避けの柵
登城口から少し登ると、獣避けの柵があり、それを開けて登城します。勿論、閉めてから登城です。
03獣避け柵

危ない橋w(*゚o゚*)w
獣避けの柵のところから、城跡保存会の方により整備された道を5分ほど登ると谷に架かった橋へ出ますが「橋が腐っている すべる! 落ちる! ゆっくり! そうろり! 渡れ」という注意書きがw(*゚o゚*)w。確かに、今にも床が落ちそうな上、滑りやすかったです(苦笑)。
05橋

堀切
山の中腹に「堀切」と書かれた案内板がありました。ほとんど埋まっており、案内板がなければ気が付かないほどです。また、縄張り図によると、堀切は竪堀となって山裾へ延びていってるのですが、藪で全く分かりませんでした(/。ヽ)。
07堀切

本丸
登城口から約25分で本丸に到着。本丸は南北20m、東西12mほどで、北側の虎口両側には版築土塁が比較的良好に残っています。土塁は、基底部幅3.5m、高さ1.2mで、土塁に石垣を継ぎ足した独特の防塁を構築しています。石垣は、おそらく宇喜多氏が改修した時のものでしょう。
09本丸

西辺の石垣をズームアップ
13石垣

本丸からの眺望
本丸跡からの眺望は素晴らしく、東南麓には因幡街道と加茂川流域が一望でき、この医王山城が要衝の地にあることを改めて実感します。
IMG_5113

二の丸
虎口から出て、Uターンするように左へ廻りこんで、南の方へ下りて行くと二の丸へ出ますが、あまり整備はされていません。
18二の丸

三の丸
さらに南へ向かって進むと三の丸へ出ます。三の丸は、低い土塁(石塁?)で区画されているようです。また、西辺には高さ1.5mほどの土塁も確認できます。
21三の丸

大堀切
三の丸跡から、道なき道をどんどん下りて行くと、良好に残る堀切がありました。縄張図では、この先に畝状竪堀があるはずなのですが、藪で全く分かりませんでした(/。ヽ)。
25大堀切

本丸の北は??
本丸の北側にも、畝状竪堀があるようですが、かなりの藪の上、この前に登った矢筈城の疲れもあり突入を断念しました(/。ヽ)。また、この薮の道は、「塩屋城」へも続くらしいですが、勿論、今回はパスです(/。ヽ)。
IMG_5155

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