鶴田藩主西御殿の腰巻土塁
第二次長州征伐で敗れ逃れてきた浜田藩の陣屋
読み方
たずたじんや
所在地
岡山県津山市(久米町)桑下
【アクセス】
久米CCの南、約300m。国道429号沿いの桑村郵便局の100mほど西を、県道159号へ入り200mほど北上したところから細い道へ右折し、100mほど東進すると石垣が見えてきます。この付近一帯が陣屋跡です。道端に車を停めました。
桑村郵便局:津山市桑下1417−3、0868-57-3300
所要時間
見学時間は5分ほど
形状
陣屋
現状・遺構等
【現状】 小公園、畑ほか
【遺構等】 曲輪、石垣、石段、石碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2013/11/24
歴史等
第二次長州征伐に際して、石見浜田藩6万1千石(城主松平監家)は、幕府先鋒隊の一つとして石州口の守備に就いたが、村田蔵六(のちの大村益次郎)指揮する長州軍に敗北し、慶応2年(1866)7月、自ら浜田城に火を放って杵築(現出雲市大社町杵築)に、続いて松江に退いた。
その後、この幕長戦争は朝廷からの勅命で停止されたが、その後も浜田藩領は長州軍に占領されたままであったので、浜田藩は飛び地であった久米北条郡(石高8千3百石)に移動した。
藩主松平武聡は、慶応3年(1867)に藩名を「鶴田藩(たずたはん)」と改め、慶応4年(1868)この西御殿の地に居館を建設することとし、明治4年(1871)6月に移った。
しかし、同月の版籍奉還、翌7月の廃藩置県で、松平武聡は藩知事の職を解かれて東京へ召喚されることとなり、藩主がここに起居したのは僅か足掛け3ヶ月であった。
『現地説明板より』
*松平武聡は、水戸藩主・徳川斉昭の十男として生まれ、第15代将軍・徳川慶喜は異母兄に当たります。
現況・登城記・感想等
鶴田陣屋跡には、腰巻き土塁が残り、その南西隅に石段があり、この石段を上った所に石碑と説明板が立っています。
ちょっとした小公園ですが、冬季にも関わらず、荒れ気味で、石垣も草木に覆われているのが残念でした。
尚、「鶴田藩」は「つるたはん」でも「かくたはん」でもなく、「たずたはん」と読むのを、説明板を見て初めて知りましたw(*゚o゚*)w。
(2013/11/23訪れて)
ギャラリー
腰巻土塁と石段
腰巻き土塁が残り、その南西隅に石段が残っています。
石碑
石段を上った所に石碑が立っていますが、実質の八千三百石でなく、浜田時代の六萬一千石となっています。