「てのくぼり」と呼ばれる畝状竪堀群
室町期には山名・赤松・浦上氏、戦国期は尼子・宇喜多・毛利氏が争奪戦を
所在地
岡山県津山市中北上
【アクセス】
国道181号線沿いにある岩谷郵便局(傍に大きな案内板有り)の少し西側の路地を岩屋川沿いに1~1・2km程北上すると駐車場や看板があり、ここが登城口で縄張図(登城道)付きの説明板があります。
岩谷郵便局:中北上岩谷751、0868-57-2088
所要時間
登城口(駐車場所)から本丸まで約40分、今回の見学時間は2時間15分でした。
形状
山城(比310m、Pから比250m、標483m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀切、竪堀、標柱、説明板、遺構説明板
満足度
★★★★★
訪城日
2013/11/24
歴史等
岩屋城は、嘉吉元年(1441)、山名教清が赤松満祐討伐(嘉吉の変)の論功行賞により、美作国の守護に任ぜられた際に築城されたという。
その後、応仁の乱の勃発(応仁元年、1467)に伴い、山名政清(教清の子)が上洛した虚に乗じた播磨の赤松政則によって落城し、さらに文明5年(1473)政則が美作の守護となったことから、岩屋城には部将の大河原治久が在城した。
永正17年(1520)春、赤松氏の部将であった備前の浦上村宗が謀反し岩屋城を奪取、部将の中村則久を岩屋城においた。これに対し、赤松政村(政則の子)は、同年4月部将小寺範職・大河原を将として半年に及び城を囲んだものの落城せず、赤松氏の支配は終わるところとなった。
このことから24年後の天文13年(1544)、出雲尼子氏の美作進出に伴い、岩屋城においても接収戦が行われ、城主中村則治(則久の子)は尼子氏に従属した。しかしながら、永禄11年(1568)頃、中村則治は芦田正家に殺害され、芦田正家は浦上氏に代わって勢力を伸ばしていた宇喜多氏の傘下に投じたが、5年後の天正元年(1573)には宇喜多直家の宿将である浜口家職が岩屋城の城主となるに至った。
その後しばらくは比較的平穏であったが、天正7年(1579)以降、宇喜多氏が毛利氏を離れ、織田氏に属したことから再び美作の緒城は風雲急を告げるところとなり、天正9年(1581)毛利氏配下の中村頼宗(苫西郡山城村葛下城主)や大原主計介(苫西郡養野村西浦城主)らにより岩屋城は攻略され、中村頼宗が城主となり再び毛利氏の勢力下となった。
織田氏と毛利氏の攻防は、天正10年(1582)備中高松城の開城により終了したが、領土境を備中の高梁川とすることについて美作の毛利方の諸勢力はこれに服さなかったため、宇喜多氏の武力接収戦が部将花房職秀を将として行われた。この接収戦は長期にわたり決戦の機会に恵まれず、当時備中の鞆にいた足利義昭の調停により戦闘は収束した。
これ以降、宇喜多氏に属することとなった岩屋城には、宇喜多氏の宿将長船越中守が入城した。しかしながら、6年後の天正18年(1590)8月野火により消失し廃城となったと伝えられている。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
岩屋城は、登城した多くの人からの評価が高く、大いに期待しての登城でしたが、登城口から、慈悲門寺跡、水門跡、龍神池、馬場跡、本丸跡、二の丸跡、本丸東砦跡を見て廻って行くうちに、皆さんが評価するほどの城跡だろうか疑問になってきました。
確かに、規模も大きい上に、遺構もよく残り、それなりに見応えはあります。しかし、その疑問は、二の丸東の大堀切、さらには「てのくぼり」と称される畝状竪堀群をみて、一挙に吹っ飛びました。
中でも「てのくぼり」は凄いです。上から見下ろすと、はるか下まで一直線に大規模な竪堀が延びているのが見えるのです。それも12本も延々と続いているのです。
この「てのくぼり」を見て、私の評価も一変に変わりました(*^_^*)。皆さんの仰る通り見応え満点の城跡です(笑)。
(2013/11/24登城して)
ギャラリー
岩屋城縄張略図(現地説明板より)
【登城記】
岩屋郵便局傍に立つ岩屋城への案内板
国道181号線(写真左)から、岩谷郵便局の少し西にある大きな案内板(下写真)のところから路地を北上します。
妙福寺上砦跡
案内板のところから路地を北上すると、宇喜多氏が岩屋城を攻略するために陣を張った「妙福寺上砦」と「荒神上砦」が両側にあり、さらに北上すると家臣屋敷跡を示す標柱が各所に確認できます。とりあえず帰りに確認することにして、そのままスルーしました。
ところが、帰路、「荒神上砦跡」も「家臣屋敷跡」も確認どころか、写真さえ撮り忘れてしまいました(/。ヽ)。
登城口
案内板のところから、1~1.2kmほど北上すると左手に駐車場があり、縄張図付きの説明板が立っています。その左手奥(下写真)が登城口です。
さあ登城、いきなりの階段ですw(*゚o゚*)w
登城口から山の中へ入って行くと、すぐ右手に長い階段があります。これを登って行きます。一緒に登城したT本さんが、階段の数を教えてくれたのですが忘れてしまいました(;´▽`A``。確か、300段近かったような??
慈悲門寺下砦跡
長い階段を2~3分ほど登ると、右手に慈悲門寺下砦跡の曲輪群が現れます。上2段、下2段で構成されているようです。尚、左手には慈悲門寺西砦跡があるのですが、どちらもピンクのビニール紐が張ってあり進入禁止のようです(/。ヽ)。
慈悲門寺跡
さらに2~3分ほど登って行くと、右手に広い平坦地が現れます。慈悲門寺跡です。
以下、説明板より、
岩屋山慈悲門寺跡は、円珍(814~891)の開基によるという伝承のある天台宗の寺院跡で、「慈悲門寺」の寺号は勅賜であるという。(作陽誌)寺跡は、岩屋谷に面した尾根の上部を削平して造成され、有事の際には砦としても使用されたと考えられ、岩屋城の廃城と共に寺も廃滅したと伝えられている。
建物等の規模・内容等については一切不明であるが、現在この地には建物礎石と考えられる転石があり、付近には瓦片や備前焼の破片等が多数散乱している。
なお、この寺跡の周辺には多数の小規模な平坦地が多数造成されている。この平坦地の造成された時期や用途・目的については詳らかではないが、これらの占地からみて寺院関連の施設、あるいは慈悲門寺を守る砦の役割を果たしていたのではないかと推測される。
山王宮拝殿跡(5合目)
慈悲門寺跡からは、完全な山道を登ることになります。8分程登ると、狭い平坦地が現れ、5合目の標柱とともに「山王宮拝殿跡」の案内板が。この先に、山王宮があるのですが、そこに至る道が非常に険しかったために、一般の参拝客は、この場所にあった拝殿から参拝をしていたのだそうです。
山王宮
拝殿跡の右奥に、岩をくり抜いて築かれた山王宮が見えます。そこまでの道が危険なためでしょうか、ピンクのビニール紐が張られて進入禁止になっているようなので、ズームアップして写真を撮りました。確かに、そこまでの細い道の、右下は断崖絶壁です。
大手門跡
山王宮拝殿跡から、かなり急な坂道を7分ほど登ると、谷の出口にあたるところにあった大手門跡へ出ます。
水門跡
大手門のすぐ上には水門跡があります。今も、湿地になっていますが、この辺りに水が溜められていたのでしょうか。上の方を見ると、龍神の社が見えます。
龍神池
こんな山の上ですが、水がしっかりと溜められています。また、この脇に井戸もあります。
以下、説明板より、
「龍神池は、嘉吉元年(1441)山名教清による岩屋城築城のおり、山名氏の本拠である伯耆国赤松池にならい、この地に池をつくり、祭神を城の鎮守として祀ったと伝えられる。また、この池の水は、城内の生活用水としても使用されたのであろう。」
本丸へ
龍神池から先は、いよいよ城跡らしくなります。本丸跡まで300mほどです。右手上は、本丸から南へ派生した尾根に築かれた曲輪です。
南堀切
しばらく進むと、右手上に堀切が見えます。この辺りの斜面は、イノシシが通る道らしく、堀切のところから、イノシシが下りた跡や、掘った跡がいっぱいです。
井戸跡
さらに、しばらく進むと左手の谷部に井戸跡があります。黒いシートが被されていましたが、取り外して見たら、今尚、すごく綺麗な水が溜まっていました。湧水なのでしょうか。当城は、こんな山の上にありながら、本当に水が豊富なようで、何度も落城したのが信じられないほどです。
本丸跡と馬場跡を望む
そして、いよいよ右前方に本丸跡、左前方に馬場跡が見えて来ます。本丸は、随分広い感じです。
本丸腰曲輪の石垣
本丸下の腰曲輪には、石垣が確認できます。
馬場腰曲輪
本丸へ向かう前に、まず馬場跡へ向かうと、馬場の下に腰曲輪がありました。
馬場跡
馬場下の腰曲輪を歩いて、馬場の南端から馬場跡へ登りましたが、兎に角、広いです。
以下、説明板より、
「岩屋城の大手筋から東方面(津山方面)を見下ろすことのできる位置で、南北約108m 東西約20mの長楕円形の平坦面が広がり、数か所の集石がある。本丸付近の郭の中では一番大きいもので、備前焼等の土器片も広範囲に出土を見ることから、有事の際には多数の兵員が駐留していたと考えられる。」
馬場跡からの眺望
馬場跡からの眺望は素晴らしいです。この付近には各所に出城や付け城が築かれていたようです。
馬場跡から本丸跡を望む
馬場跡から眺める、広々とした本丸跡跡はかっこいいです。
本丸跡
馬場跡の本丸との接合部辺りから、「小分城跡」と「石橋上砦跡・椿ヶ峪砦跡」へ向かう道がありましたが、今回はパスして本丸へ向かいました。本丸は、谷部や馬場跡から望んだ感じより狭い感じです。
以下、説明板より、
「本丸跡は、岩屋山の山頂を削平して造成され、東西約60m南北約20mの楕円形の規模をもつ。昔からこの地を本丸跡と伝えられていて、ここから山頂部にある城郭のほとんど全域を見渡すことができる位置である。」
本丸からの眺望
これまで登った津山の山城は、何処も、本丸からの眺望が素晴らしいですが、この岩屋城の本丸からの眺望も本当に素晴らしいです。
本丸から馬場跡を望む
本丸から見る馬場跡の光景はかっこいいです。山城には、馬場跡と称される曲輪が数多いが、その中でもピカイチでしょう。尤も、実際は馬場ではなかったでしょうが・・・。
落とし雪隠
本丸跡の北東部に「落とし雪隠」というのがある。「雪隠」といえば便所ですが、まさかこんな場所で用を足していたとは思えません(苦笑)。何しろ、この下は急崖ですw(*゚o゚*)w。
しかし、毛利勢は、この断崖をよじ登って攻め込んできたという。危険なだけでなく、汚いですけどネエ(^_^;。
以下、説明板より、
「本丸北側の垂直に近い断崖は、昔から「落とし雪隠」と言われ、天正9年(1581)の毛利氏による岩屋城攻略戦の時、毛利方の将中村大炊介頼宗は、決死の士32人を選び、風雨の夜この「落とし雪隠」をよじ登らせて城内に火を放ち、大手口方面の攻略軍と呼応して攻めたので、堅固なこの城も遂に落城したと伝えられている。」
本丸跡から本丸東砦跡を
本丸跡から、尾根の上を、本丸東砦跡へ向かおうとしたら、またまたピンクのビニール紐が・・・(/。ヽ)。止むを得ず、戻ることにしました。
二の丸跡
本丸跡から本丸東砦跡経由二の丸というコースは諦めて、龍神池へ戻り、二の丸方面へ向かいました。二の丸右(東)側には低い土塁が設けられていました。本丸は、2つの区画に分かれていたようです。
二の丸から二の丸東側の大堀切を見下ろす
二の丸東側の土塁の向こうを覗くと、深い空堀が見えます。この後、見に行った大堀切です。
二の丸と本丸東砦間の堀切
二の丸跡から、本丸東砦跡へ向かうと、堀切が現れます。比較的、良好に残っています。
本丸東砦跡
本丸東砦は、3段になっていたようです。本丸の近くまで行ってから、戻りました。
三の丸跡
当写真は、二の丸跡から三の丸跡を撮ったものですが、三の丸への登り口には、またまたピンク色のビニール紐が張られていたので、敢えて登るのを止めました。
大堀切
二の丸跡を見終えて、あとは二の丸から見下ろした「大堀切」へ・・・。これは、なかなか見事です。ここまで廻って見て、噂ほどの城跡ではないなあと思っていただけに感激です(*^_^*)。
「てのくぼり」①
大堀切も見たし、あとは下山するばかりと、管理者用道路へ向かうと、左手下に案内板が見えたので、下りて行って見ると「てのくぼり」でした。いわゆる、畝状竪堀群ですが、これがスゴイの一言ですw(*゚o゚*)w。上から見下ろすと、はるか下まで一直線に大規模な竪堀が延びているのが見えるのです。それも12本も延々と続いているのです。
「てのくぼり」②
「てのくぼり」を見て、私の評価は一変に変わりました(*^_^*)。皆さんの仰る通り見応え満点の城跡です(笑)。あとは、昨日の矢筈城ほかの攻城で痛めた膝をひきずって下山するだけですが、登城した甲斐がありました(*^_^*)。
以下、説明板より、
土地の人が「てのくぼり」と呼んでいる畝状空堀群である。東側の谷に向かい、幅約5m・深さ約2m・長さ100m以上の竪掘りが12本掘られている。有事の際、攻撃側の横移動を妨害するなど山腹防御の上で非常に有効な施設なので戦国時代の城郭において盛んに取り入れられた。