鞆城本丸跡(鞆歴史資料館)から望む大可島城跡
瀬戸内海上交通の要所鞆の浦の島に築かれた海城
読み方
たいがしまじょう
所在地
広島県福山市鞆町古城跡、円福寺
円福寺付近一帯(鞆歴史資料館の南東約300m)が城跡で、周辺は道が狭く駐車が無理なため、鞆歴史資料館有料駐車場に停めて歩いて行くのが良いでしょう。
鞆歴史資料館(鞆町後地536-1、084-982-1121)
形状
島城(水軍城) 標高10m
現状・遺構等
【現状】 円福寺ほか
【遺構等】 曲輪、説明板
満足度
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訪城日
2012/01/09
歴史等
大可島城の築城時期は定かではないが、南北朝動乱期と思われる。
鞆の浦に突きだした半島状(陸繋島)の丘の上に築かれた城で、もとは独立した島であった。
南北朝期の康永元年(1342)に、鞆の地は南北争覇の決戦場となり瀬戸内の南朝方は大可島城に拠った。これに対して北朝方足利勢は小松寺に陣し、連日激戦が続けられたが、当時四国における南朝方の本拠伊予世田城が危ういとの報に、籠城勢の大部分を占める伊予勢が本国へ帰ってしまい、備後服部の桑原重信一族のみ城に留まり孤軍奮闘したが、遂に城は陥落し、一族は自刃して果てた。
貞和5年(正平4年、1349)には、足利尊氏の庶子で弟直義の養子となった足利直冬が、6ヶ月ほど在城したという。
その後、戦国時代、村上水軍の一族が大可島城を拠点に海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていた。
天正元年(1573)には、織田信長から京を追われた将軍足利義昭が、鞆に逃れてきており、義昭が鞆城滞留中、大可島は村上亮康が、義昭警護のためここに居城したと言われている。
関ヶ原合戦の後、安芸広島城に入った福島正則は、支城として鞆城を築城し、大可島城は廃城となった。
『「現地(円福寺、桑原一族墓地)説明板」、「日本城郭大系13」等参照』
現況・登城記・感想等
円通寺のある丘の上一帯が大可島城址で、本堂周辺を取り巻く平坦地が曲輪の跡と思われるが、遺構としては見るべきものはない。
ただ、水軍城としては、申し分のない立地にあり、ここに水軍城が築かれたのは納得できる。
本堂前に説明板が設置され、また寺の前には、白壁に囲まれた桑原重信一族の墓地と伝わる三輪塔群がある。
(2012/01/09訪れて)
ギャラリー
鞆城本丸跡(鞆歴史資料館)から大可島城跡を
左の方に見えるのが大可島城跡。元々は、独立した島であったという。
福禅寺から大可島城跡(円福寺)を
歴史資料館の駐車場に車を停めて南の方へ向かって歩いて行くと、、大可島城跡である円福寺が高台上に見えてくる。
急崖上に
円福寺は、急崖の上にあり、まさに要害の地であるのが分かる。崖の下は、元々は海だったのだろう。勿論、こちらからは登ることはできない。
円福寺へ
右(西)へ廻って坂道を歩いて行くと、左手上に目指す円福寺(大可島城跡)が。廻りこんだとはいえ、かなり急な石段だ。
伝桑原重信一族墓地
寺の前には、南北朝期に北朝方の攻撃で自刃して果てたという桑原重信一族の墓地と伝わる三輪塔群がある。一族の末裔の方により説明板が設置されている。
円福寺
本堂周辺を取り巻く平坦地が郭の跡と思われるが、遺構としては見るべきものはないが、本堂前に説明板が建てられている。
鞆城跡(鞆歴史資料館)を
円福寺から、鞆城本丸跡に建つ鞆歴史資料館もみえる。
本堂の裏から鞆の浦を
本堂の裏へ廻ると、弁天島などの島々がよく見える。左に見える船「平成いろは丸」は、毎日運航しているそうだ。すぐ下の墓所の辺りは曲輪跡であろうか。