高杉城跡本丸北東部の堀
社司祝氏の居城、戦国期は江田氏の支城に、高杉晋作ルーツの城か?
別名
杉山城、祝城(はふりじょう)、祝要害(はふりようがい)
所在地
広島県三次市高杉町383、知波夜比古神社
【アクセス】
国道184号「神杉信号」を西へ入り、広域農道を1km程西進すると右手100m程に城跡である神社(知波夜比古神社)が見えます。神社へ向かう道端に説明板が立っているのも見えるので、すぐ分かると思います。
知波夜比古神社:三次市高杉町383
(知波夜比古神社へ向かう道)
所要時間
今回の見学時間は12~13分ほどでした。
形状
平城(標高170m、比高5m)
現状・遺構等
【現状】 知波夜比古神社
【遺構等】 曲輪、土塁、横堀、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2013/12/02
歴史等
高杉城の築城時期や城主については明らかではありませんが、城跡内に鎮座する知波夜比古神社の社司であった祝氏との関係から、観応年間(1350~1352)頃に祝氏が構築されたものと考えられます。
戦国時代になると、三次盆地は山陰側の尼子氏と山陽側の大内氏・毛利氏の激しい抗争地となります。
その中で、当地方の武将である三吉氏・和智氏・江田氏はどちらの勢力につくか不安定な日々でした。大内氏に属していた江田氏は、天文20年(1551)大内義隆が陶晴賢に殺害されると、これを機会に尼子氏に属することにしたため、天文22年(1553)、毛利元就の攻撃を受けました。
江田氏の支城であった高杉城には城主祝甲斐守・治部大輔を中心に約1000人が籠城していましたが、7月23日、当城の東北から毛利元就・隆元の軍勢、西から吉川元春の兵士により攻められて落城し、祝甲斐守父子は滅ぼされました。討ち取られた首が約600とあり、ほぼ全滅状態でした。
その後、弘治2年(1556)毛利元就、隆元父子によって本殿が再建され、城郭としての機能は失われましたが、神社はすぐに復元され、元の姿は保存されたことが推察されます。
『「現地説明板2基」、「日本城郭大系13」参照』
現況・登城記・感想等
高杉城は一説によると、「*高杉晋作のルーツの城」であるといい登城するのが楽しみでした。
現在残る城跡は、多分、本丸部分だけと思われ、南北約70m、東西約50mと規模は小さいですが、周囲をめぐる土塁が良好に残っています。土塁は高さ1~2m、幅3~4mで盛土をしたもののようです。
また、土塁の外側をめぐる堀も南西部は埋め立てられて道路になっていますが、東・北・北西部の堀は、時を経て埋まってしまったのでしょう。かなり浅くなってはいますが、比較的良好に残り、堀幅は4.5~5mほどあります。「陰徳記」によると、往時は三重堀であったというから、かなりの防御性があったものと思われます。
(2013/12/02登城して)
*司馬遼太郎氏は備後国三谿郡高杉村の「高杉城」を晋作のルーツであると指摘している。高杉城の城主は知波夜比古神社の社家・祝氏で、江田氏の配下にあった。また高杉家が藩に提出した文書でも、初代・高杉小四郎春時の生国は備後国三谿郡高杉邑となっており、その父は安芸国分郡守護武田元繁とし、関ヶ原合戦後、長州国萩に移り住んだとされる。尚、安芸武田家は武田信玄の甲斐武田家の本家筋にあたり、承久の乱の戦功により安芸守護に補任された。高杉氏は安芸の守護職・武田氏の配下でなんらかの神事に関わっていた一族だろうと推測する説もある。
一方、安芸国高田郡(現安芸高田市)に所在した「高杉山城」を指摘する説もある。こちらの城跡には高杉晋作が高杉氏の13代目の子孫であることを示す碑が晋作の子孫により昭和10年(1935)に建立された。どちらの高杉城も晋作の先祖と関わりがあると思われるが、詳細は不明である。
(以上、ウィキペディア「高杉晋作」より)
ギャラリー
高杉城跡の図(現地説明板より)
現在残るのは本丸跡だけと思われ、南北約70m、東西約50mと規模は小さいですが、周囲をめぐる土塁と堀が良好に残っています。
知波夜比古神社本殿
本丸跡には、知波夜比古神社が鎮座しています。本殿周囲を土塁が取り囲んでいます。
南側土塁
神社へ入る左手には土塁があり、土留めの石垣がありますが、これは後世のものでしょう。
南東部の土塁(城内側から)
神社周囲を巡る土塁は、高さ1~2m、幅3~4mで盛土をしたもののようです。南東部には虎口(写真右)があります。
南東部の土橋と虎口
南東部には虎口があり、土橋が設けられていますが、これらが往時のものかどうかは分かりません。
東側の堀
土塁の外側をめぐる堀は、時を経て埋まってしまい、かなり浅くなってしまっています。堀幅は4.5~5mほどです。
北東隅の堀
北側の堀
南西の土塁
南西部の堀は埋め立てられてしまい、道路になっていますが、土塁は良好に残っています。