備後 神辺城(福山市)

神辺城毛抜堀に架かる橋

備後守護職の城、関ヶ原合戦後には福島正則の家老正澄が修築・居城

読み方

かんなべじょう

別名

道上ノ城、黄葉山城、楓山城、麓城

所在地

広島県福山市神辺町川北、吉野山公園
【アクセス】
神辺駅の東約400m。城跡は吉野山公園になっています。公園内にある歴史民族資料館を目指して行けば、城の登城口の駐車場に着きます。
歴史民族資料館:福山市神辺町大字川北6−1、電話084-963-2361

所要時間

今回の見学時間は20分強でした。

形状

山城(標高120m、比高110m)

現状・遺構等

【現状】 吉野山公園
【遺構等】 曲輪、石垣、井戸、堀切、竪堀、説明板、遺構案内碑、移築門(実相寺山門)
実相寺:福山市吉津町5-5-32、電話084-922-9852

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2013/12/02

歴史等

神辺城は「道上ノ城」とも呼ばれ、元弘の乱(南北朝争乱)で戦功をあげた朝山景連が備後国守護職に任じられ、建武2年(1335)に築城したと伝えられている。
その後、観応の乱などを経て、延文元年(正平11年、1356)に山名氏が備後守護となり、以後、備後は一時期を除いて山名氏の支配がつづき、神辺城には山名氏の守護代が居城している。
天文7年(1538)、元来大内氏に近かった山名氏ですが、尼子氏と結んだ山名忠勝により神辺城を占拠されたことから、大内義隆は山手銀山城(福山市山手町)主杉原理興に命じてこれを落とさせたため、山名氏の支配は終わり、杉原理興が神辺城主となり、大内氏を背景として周辺の在地武士を従えて、勢力を拡大していった。
しかし、天文11年(1542)大内氏が尼子氏の月山富田城攻めに失敗すると、他の国人武士と共に尼子氏に寝返ったため、天文12年(1543)、大内義隆は毛利元就・弘中隆兼らに神辺城を包囲させ「神辺城合戦」が始まった。要害堅固な神辺城は容易に落城しなかったが、天文17年(1548)、ついに理興は月山富田城に逃走し、神辺城は大内氏の手に帰することとなった。
その後、理興は、弘治元年(1555)、大内義隆の死を機に毛利元就に詫びを入れ、元就麾下として、再度、神辺城に戻った。
そして、曲折を経て、天正10年(1582)には、神辺城は毛利氏の直轄となり、同19年(1591)には元就の八男元康が城主となっている。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、福島正則が芸備49万石の領主として入封するが、その際、神辺城には3万石の城主として家老福島正澄を置いた。
このように、神辺城は約300年間にわたり幾多の城主の変遷があり、そのたびに城の修築が行なわれたようだが、福島時代に完成をみている。
しかし、元和5年(1619)、福島氏も改易となり、水野勝成が備後10万石の領主として入って来たが、同年中には福山城の構築に取り掛かって移っていった。その際に、神辺城は廃城となり、石垣や櫓や門の多くは福山城に移されたといわれている。
『「日本城郭大系」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

神辺城は、福島氏により完成された城でもあり、往時は総石垣の壮大な近世城郭であったことが想像される。
しかし、残念ながら、水野氏が入封して福山城築城の際に、櫓や門は勿論、石垣の石も大部分が解体されて移され、今では階段状に築かれた曲輪跡から往時を偲ぶしかありません。
石垣の一部や建物礎石が、僅かに残っているとのことであったが、見付けることは出来ませんでした。勿論、中世に設けられた畝状竪堀群も見ることはできませんでした(/。ヽ)。
(2013/12/02登城して)

ギャラリー

神辺城想像図(現地説明板より)
00想像図

登城口
山麓から、くねくね曲がる九十九折の細い道を車で登ってくると駐車場へ出ます。ここが登城口で、説明板が立っています。城跡へは、説明板の左手奥の、毛抜堀と称される堀切に架かる橋を渡って行きます。尚、駐車場の反対側には、歴史民俗資料館へ登って行く道もあります。
01登城口

毛抜堀①
「毛抜堀」とは、頭髪が気になる私としては、何とも勿体無いような名前です(苦笑)。当写真は橋の上から撮ったものです。それほど規模は大きくないが、岩盤を削ってあるようです。
03堀切1

毛抜堀②
橋の裏側(説明板から右へ廻った処)から撮ったものです。
05堀切2

四番櫓跡
橋を渡って、整備された道を歩いて行くと、三番櫓跡の下へ出ます。そこから東麓を見下ろすと、もう一段下にも削平地(曲輪跡)がありますが、四番櫓跡でしょうか。
07三番櫓下から東麓を

三番櫓跡から神辺平野
三番櫓跡からの眺望はなかなかのもので、さすが約300年にわたり備後国守護所が置かれていただけのことはあります。
08三番櫓からの眺望

三番櫓跡から二番櫓跡と乾櫓跡を
神辺城主郭部は、階段状に曲輪が設けられています。手前上が、二番櫓跡で、その奥上が乾櫓跡です。
09三番櫓から二番櫓を

二番櫓跡から乾櫓跡を
11二番櫓から乾櫓を

乾櫓跡から本丸跡を
13乾櫓から本丸を

本丸跡
15本丸跡

【神辺城・移築現存建物】
神辺城は、福山城築城の際に解体され、石垣や櫓の多くは福山城に移されたといわれている。福山城に移された櫓は神辺一番櫓(三層)、神辺二番櫓(二層)、神辺三番櫓(二層)、神辺四番櫓(二層)などであるといわれているが、これらはいずれも明治初期に解体された。現在まで残る神辺城の建築物の遺構といわれているのは、福山市北吉津町の実相寺の山門のほか、明王院の書院、庫裡などである。
神辺城移築現存門(実相寺山門)
神辺城城門

実相寺の石垣と山門(神辺城移築現存門)
門もなかなかのものですが、それ以上に、寺の石垣が立派で城郭のようで、驚きでしたw(*゚o゚*)w。
IMG_7749

サンタクロースがw(*゚o゚*)w
また、実相寺経営と思われる保育園の発表会の案内にサンタクロースの絵が描かれていましたw(*゚o゚*)w。如何にも、日本のお寺らしいですね(*^_^*)。
IMG_7748

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