毛利元就の生涯の本拠
所在地
広島県安芸高田市吉田町郡山
形状
山城(標高:389.7m、比高:200m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:本丸、二の丸・三の丸・姫丸等の曲輪、本丸跡に三層櫓跡、空堀、石垣、土塁、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2002/02/09
歴史等
郡山城は南北時代の建武3年(1336)毛利時親が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就が郡山全山を城郭化し、
さらに輝元が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏260余年間の居城であった。
郡山城は、北流する可愛川と、それに注ぐ多治比川との合流点の北側にあり、標高390m、比高190m、範囲は1km平方に広がる。
遺構は、山頂に本丸、周囲に二の丸・三の丸のほか、御蔵屋敷の壇・勢溜の壇・姫の丸の壇など大小約70余の曲輪が配され、
ところどころに石塁の跡が見られる。
天文9年(1540)9月、尼子晴久が3万の兵を率いて来攻したが、毛利軍は小勢ながらよく戦い翌年1月尼子軍を敗退させた。
その後、毛利氏は、この城を本拠として、中四国・北九州まで勢力を伸ばした。
天正19年(1591)輝元の広島城移城後は廃城となり、
江戸時代に入って、元和元年(1615)の一国一城令、寛永14年(1637)の島原の乱での切支丹籠城を恐れ、再度の破壊が行われ、
石垣なども壊され、堀も埋められた。
郡山城は、中世山城の特徴を今に伝える貴重な遺跡です。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
山麓の御里屋敷跡に、かの有名な「三矢の訓(みつやのおしえ)跡の石碑」があった。
そこから車で少し登ると、駐車場があり、天文9年(1540)の尼子晴久が3万もの大軍で攻めてきた郡山合戦時の尼子軍の「青山・
光井山陣所」がよく見える。こうして見ると、本当にすぐ傍のようで、見るものを圧迫するような臨場感がある。
そこから、元就の墓所までは5分程度の所にあり、「百万一心の碑(元就が築城の際に、それまでの風習であった人柱に替えて、
姫丸壇の礎石に彫らせて埋めたと伝わる一日一力一心の共同一致の精神を示す大石の拓本)」が建っていた。
そこから本丸には、ハイキングコースのような山道を20分弱で着いた。本丸のすぐ近くに二の丸・三の丸があった。
二の丸には石垣の一部が残っていた。
そこからは、いくつもの下城する道はあり、かなりの曲輪跡が残っているようであったが、時間の関係もあり、輝元の墓所の方へ降りて行った。
かなり大掛かりな城郭であると同時に、歴史のロマンに浸れる城である。
帰りに、山麓にある歴史民族資料館へ寄って見たら、司馬遼太郎の記念碑があった。
(2002/02/09登城して)
ギャラリー
「三矢の訓(みつやのおしえ)の碑」
有名な元就から三子に与えた共同一致の教訓
「百万一心の碑」
元就が築城の際に、それまでの風習であった人柱に替えて、
姫丸壇の礎石に彫らせて埋めたと伝わる一日一力一心の共同一致の精神を示す大石の拓本。
「青光井山尼子陣所跡」
天文9年(1540)、尼子晴久が3万もの大軍で攻めてきた郡山合戦時の尼子軍の「青山・光井山陣所」。
本当にすぐ傍のようで、見るものを圧迫するような臨場感がある。
本丸跡
二の丸跡
石垣は崩れているが、元々は3mほどの高さがあったようである。
「司馬遼太郎記念碑」 ~吉田町歴史民族資料館前~
「城趾の山から降りてくると、白橿の幹のむこうに盆地がみえる、一歩ごと蛙の声が近づいてくる」