沼城主菩提寺の保福寺、背後の丘陵が沼城城主屋敷跡
毛利元就の防長制圧終盤における最大の激戦地となった城
読み方
すすまぬまじょう
別名
遠徳山城
所在地
山口県周南市須々万郷(保福寺裏手の高台が城跡)
保福寺:周南市大字須々万奥肝要470、0834-88-0033
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 クワハウス周南温泉、畑地跡など
【遺構等】 模擬櫓?、城主墓、石碑、標柱、説明板
満足度
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訪城日
2012/11/08
歴史等
毛利元就の防長制圧において、最大の激戦となったところが、ここ沼城の戦いです。
天文24年(1555)10月1日、安芸の厳島の戦いにおいて陶晴賢を破った元就は、破竹の勢いで周防の国に入り、岩国の永興寺を本陣として、防長二州の制圧にとりかかりました。
弘治2年(1556)4月19日、元就の嫡子隆元は、兵約50騎を率いて岩国を出発し、翌20日須々万に到着、沼城攻撃を開始しました。
しかし、沼城に集結した大内陣営の勢力は、毛利方の予想をはるかに上回るものがあり、その上、城は三方を沼沢に囲まれた要塞堅固な城塞であったため、退去を余儀なくされました。
その後、9月22日に再び、隆元が大軍を率いて来攻しましたが、沼に悩まされて進めず、両軍の全面衝突には至りませんでした。
このため、翌弘治3年(1557)2月27日、元就自らが総大将となり、将兵1万余騎を率いて岩国を出発し、翌々29日から総攻撃に取り掛かりました。総攻撃にあたっては、沼に編み竹を投げ入れ、この上に莚を敷いて押し渡り、城中に攻め入ったため、城内は大混乱となりました。
城主山崎伊豆守興盛は、陣頭指揮で必死に抵抗をしましたが、やがて力尽き、江良弾正忠賢宣は、城を出て降参し、伊豆守父子は自刃し、3月3日落城いたしました。この戦いで籠城していた男女1,500人余は討たれたともいわれています。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
沼城主の菩提寺「保福寺」の背後の丘陵が沼城址である。往時は丘の三方が沼に囲まれた城であったことから「沼城」と呼ばれたそうで、要害であったらしいが、現状を見る限りにおいては、小早川隆景や毛利隆元でさえ落とせなかった要害であったとはとうてい想像しがたい。
尤も、現在でも、城址の全面は、だだっ広い田園地帯であり、往時は、これが深い沼地であったと考えるなら、それなりに要害堅固な城であったのかとも思われるが・・・。
現在、城のあった丘の上には「クワハウス周南温泉」が建てられ、山腹の屋敷跡は山林(畑地跡)となっている。
保福寺前には、「沼城・城主の菩提寺 曹洞宗 保福寺」と書かれた大きな看板と説明板が建てられている。
また、背後の丘陵中腹の屋敷跡には、城址石碑、説明板、城主墓が建てられ、さらには、以前に建てられたものだろうか、朽ちてしまっている模擬櫓風の建物があったが・・・?
(2012/11/08登城して)
ギャラリー
城主の菩提寺保福寺の前に立つ案内板等
保福寺前には、「沼城・城主の菩提寺 曹洞宗 保福寺」と書かれた大きな看板と沼城に関する詳しい説明板が建てられている。
城主山崎氏寄贈?の燈籠
寺の中へ入るとすぐ両側に「沼城主 山崎家一族」と刻まれた燈籠がある。城主であった山崎氏の寄贈によるもので、往時のものだろうか?? かなり、新しいもののようだから、多分、城主の末裔の方の寄贈でしょうね。
背後の山林へ・・・
お寺の背後の城跡へ登って行くと、左手土塁(屋敷跡地)にほとんど朽ちてしまっている櫓風の建物が見え、正面には城主の墓と城址碑が・・・。土塁の上は、以前は畑地であったのだろうが、今は荒れ果てた空き地になっている。勿論、櫓?は見るも無残な状態に。
城主墓と城址碑