周防 高嶺城(山口市)

高嶺城最頂部の曲輪(本丸)北東部の石垣

毛利元就の攻撃に備えて大内義長が築いた山城

読み方

こうのみねじょう

別名

鴻峰城、高峰城

所在地

山口県山口市上宇野字高嶺(鴻ノ峰公園)
【アクセス】
国道9号線「糸米信号」から200mほど東進すると、左へと「木戸神社」へ入って行く路地があるので、そこを左折(国道9号線は中央分離帯があるので、反対車線からは曲がれないので要注意)し50mほど北進すると木戸神社に突き当たる。(ここからは案内板がある)そこを左折し、50mほど西進すると小川があるが、その手前を右折し木戸公園内の道路を1kmほど北進すると、高嶺城と森林公園の分岐点へ出るが、この付近に木戸公園の駐車場がある。
ここからは道が細い上に、片側は崖で、対向車が来た場合、すれ違いのできる場所が少ないので、ここに車を停めるのが良いかもしれません。
車でさらに登る場合、この分岐点を右折して細い坂道を1.5kmほど道なりに登って行くと、「山口鴻ノ峯テレビFM中継所」へ出る。ここに、何台か駐車できるスペースがある。
尚、東麓の山口大神宮から登る道もあるようです。

所要時間

木戸神社から木戸公園最上部(分岐点傍の駐車場)まで徒歩約13分
木戸公園最上部(分岐点傍の駐車場)から山口鴻ノ峯テレビFM中継所まで徒歩23~24分
山口鴻ノ峯テレビFM中継所から本丸まで約10分

形状

山城(標高338m、比高約250m)

現状・遺構等

【現状】 鴻ノ峰公園(山林)、国指定史跡
【遺構等】 曲輪、石垣、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2012/11/18

歴史等

高嶺城は、弘治3年(1557)に大内義長によって築かれた。義長は大友義鎮(宗麟)の異母弟で、天文20年(1551)に大内義隆を滅ぼした陶晴賢に迎えられて大内氏の当主となった。
弘治元年(1555)、毛利元就は義軍と称して厳島の合戦で陶晴賢を敗死させると、周防へ攻め入り陶氏の勢力を駆逐した。
これに対して大内義長は、翌2年(1556)春、急遽高嶺の頂上に築城し、未完のまま内藤隆世と共に籠城した。
しかし、毛利勢の攻撃は迅速で、また、多くの内応者もあり、大内義長は長門勝山城(下関市)へと逃れ、その後、長府長福寺(現、功山寺)にて自刃した。
義長が去った後、毛利氏は城の改修をし、市川経好を城番として任命し、山口地方の守りとした。
永禄12年(1569)、大友義鎮のもとに寄食していた大内輝弘は、大内氏再興と称して義鎮の支援を受け、秋穂浦から上陸し、高嶺城を囲んだ。この時、毛利氏の城番市川経好は筑前立花城攻めに出陣して不在であったが、その妻女は僅かな城兵を励ましてよく防戦につとめて守り抜いた。そして、大内輝弘は、筑前より戻った毛利勢に破れて遁走し、防府の茶臼山にて自刃した。
その後は、市川経好・柳沢元政・佐世元嘉らが城番として高嶺城を守ったが、元和元年(1615)の一国一城令により、毛利氏は萩指月山城だけを残し、山口高嶺城、長府串崎城、岩国横山城を破却することとなり、寛永15年(1638))の高嶺城は廃城となった。
『「日本城郭大系14」、「現地説明板」ほか参照』

現況・登城記・感想等

高嶺城は、山口市街の北西に聳える独立峰・高嶺に築かれた城で、山口市の多くの場所から望むことができる。
いまでは、人気のハイキングコースになっているようで、多くの地元のハイカーの方に出逢った。
城の縄張りは、比較的傾斜の緩やかな南尾根を段々に削平した曲輪が配置された連郭式山城であるが、土塁や堀切は設けられておらず、また、虎口も平虎口で特に工夫は見られないようだ。
しかし、最頂部の本丸(案内板には頂部廓・砦跡となっている)周囲は石垣が組まれていたようで、北東部の石垣が比較的良好に残り、また、本丸には礎石が、本丸東下には井戸跡もある。石垣は、本丸以外にも、各所に組まれていたようだ。
決して、技巧的な城とは言えないが、規模は大きく、見どころも多い山城である。
尚、山麓の地は木戸孝允が国事に奔走していた慶応年間に居住していたのだそうだ。孝允は、死を前にして、本宅・山林を全て村民に与えて、子弟の学資に充てるよう遺言したといい、孝允を祀った木戸神社や木戸孝允旧宅跡があり、また、その名を冠した綺麗に整備された木戸公園もあり、その周辺の紅葉が綺麗だった。
(2012/11/18登城して)

ギャラリー

高嶺城縄張略図(現地案内板より)
00高嶺城縄張略図

【登城記】
国道9号線から高嶺を望む
高嶺城は、山口市街の北西に聳える独立峰・高嶺に築かれた城である。高嶺は山口市の多くの場所から望むことができる存在感のある山だ。
0高嶺城遠景

木戸神社
高嶺城跡の南麓には木戸神社が鎮座している。この地は木戸孝允が国事に奔走していた慶応年間に居住していたのだそうだ。孝允は、死を前にして、本宅・山林を全て村民に与えて、子弟の学資に充てるよう遺言し、それに感謝した村民達が非常に感謝し、社を建てて孝允の霊を祀ったのだという。
事前調査によると、高嶺城跡への山道は、非常に細い上、対向車とすれ違うことのできる場所が非常に少ないとのことだったので、私は、この木戸神社に駐車して、歩いて登りました。

01木戸神社

木戸公恩徳碑と木戸孝允写真
木戸神社の境内には三条実美による「木戸公恩徳碑」と刻まれた篆額の碑が立っている。また、社殿の中には木戸孝允の写真が飾られている。噂に違わず、なかなかハンサムです。 
03木戸公恩徳碑 03木戸孝允写真

木戸孝允舊邸の碑
木戸神社の西には、木戸孝允の旧宅跡があり、「木戸孝允舊邸址」と刻まれた碑が立っている。
05木戸孝允旧宅跡

木戸神社と木戸孝允旧宅跡周辺の紅葉
木戸神社の西側と木戸孝允旧宅跡の紅葉が見事だったので、写真を撮りまくってしまいました。
07紅葉

07紅葉1

木戸孝允旧宅跡庭園
07紅葉3

木戸公園から高嶺(城跡)を望む
木戸神社と木戸孝允旧宅跡の間の道を北進すると右前方に高嶺が見えてくる。
09木戸公園から高嶺城を望む

分岐点
木戸神社から歩くこと、13分で森林公園と高嶺城跡への分岐点へ出る。こ高嶺城跡へは、ここを右へ進む。車でも登れるが、このすぐ傍に駐車場もあります。
10分岐点

登城道から山口市街を
登城道はハイキングコース(車も通れる)となり、所々に景色が広がっているところもあり、山口市街がよく見える。結局、車には一台も会わなかったが、多くのハイカーに出逢いました。山城めぐりで、こんなに多くの人に逢うのは珍しいことです。
12登城道からの眺望

曲輪
分岐点から23~24分ほどで、山口鴻ノ峯テレビFM中継所に到着。ここは、既に城域内で、すご横に段曲輪が確認できる。
14曲輪

城址碑と説明板
段曲輪の上段部には、城址碑と説明板が立ち、城跡地形図もある。この地形図を参考に登城するのが便利です。
15石碑と説明板

テレビFM中継所脇からの眺望
テレビFM中継所脇からは、北方面を眺めることになるが、山並みの光景が素晴らしい。
16眺望

登城道
テレビFM中継所脇を進んで行くと、左手に山の中へ登って行く道がある。いよいよ、山道らしくなる。
17登城道

曲輪
登り始めて、しばらくすると平坦地へ出る。比較的広い曲輪だ。
18曲輪

石垣跡?
曲輪への虎口脇には石垣跡のようなのが確認できる。
18曲輪石垣

段曲輪
最頂部の本丸を目指して、さらに登って行くと段曲輪跡がいくつかある。
19段曲輪

本丸
テレビFM中継所のところから10分ほどで、正面に周囲を削った本丸(案内板には、最頂部廓・砦跡と書かれている)が見えてくる。上の方には石垣が見える。
20本丸

本丸東側
本丸の右(東)へ廻って行くと、石垣が見えてくる。本丸の切岸は、なかなか急傾斜になっています。
22本丸東

井戸跡
本丸の東下には井戸跡があり、ポンプまで付いているが、このポンプ、一体いつ頃取り付けられたものだろう? 戦国時代はおろか、江戸時代でもポンプはなかったのでは?
尚、井戸の先には、石組溝が残っている。勿論、こちらは当時のものでしょうねえ。

24井戸と石組溝

本丸北東部の石垣
本丸北東部周辺の石垣は良好に残っており、なかなか見応えがある。高さ3mほどの石垣が2段、または3段になっている。
26本丸石垣

本丸北側の石垣
本丸北側にも石垣が残っているが、その下は急崖になっており、なかなか迫力がある。
28本丸北面石垣

本丸南西部の石垣
本丸南西部の石垣も、割り合い良好に残っている。こちらも、西側は急崖になっている。
30本丸南西面石垣

本丸南面の石垣
31本丸南面石垣

本丸
本丸は最頂部にあり、建物礎石が幾つも確認できる。また、城址碑と縄張図付きの説明板が設置されている。
34本丸

礎石
38本丸礎石

城址碑と説明板
36本丸石碑と説明板

テレビFM中継所横の段曲輪
この曲輪下にも幾段もの段曲輪があるようなので、南の方へ下りて行くことにした。
50段曲輪

石段
こちらの段曲輪は、あまり整備がされていないが、大きな石が多く、また石段が所々に残っている。
53石段

石垣
南下最下段の曲輪の側面には、草叢に隠れて分かり辛いが、石積みが確認できる。
56石垣

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