鞍掛山頂部(本丸)に建つ展望台
大内氏の家臣杉氏の居城、毛利氏に攻囲された鞍掛合戦にて落城
読み方
くらかけやまじょう
別名
鞍掛城、倉掛山城、蔵掛山城、藤掛山城
所在地
山口県岩国市玖珂町鞍掛
【アクセス】
玖珂中学校の西側を北上して老人福祉関係の施設前から山の西麓を回り込む道(かなり細い道が続く)を進むと鞍掛山の中腹の登山口(林間広場)まで車で登れ、駐車場もある。
尚、大手道は玖珂中学校の東側の道路を山沿いに行った所に登山口がある。
玖珂中学校:岩国市玖珂町6345、0827-82-2054
(鞍掛山城への案内図) ~玖珂中学校脇の案内板より~
所要時間
林間広場から本丸まで10分弱
形状
山城(標高240m、比高約180m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、石碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2012/11/18
歴史等
鞍掛山城は、大内氏の奉行三家老の一人で食邑3万石杉治部太夫隆泰の居城である。
杉隆泰は、陶晴賢に党し、晴賢の謀叛により大内氏31代義隆が自刃した後は、晴賢が大内氏の当主としてたてた大内義長(大友宗麟の異母弟)に仕えた。
弘治元年(1555)、陶晴賢が厳島合戦にて毛利元就に敗れ討死すると、隆泰は元就の勧告に従い降伏し、毛利氏に属したが、やがてこのことを悔い、毛利氏の動静を山口の義長のもとに密報した。蓮華山城主椙杜隆康が隆泰の内通を元就に訴えたため、毛利氏7千の兵が鞍掛山城を攻囲した。
隆泰は2千6百を率いて、これを迎え撃ち、壮烈な戦いとなったが、遂に落城し、隆泰も部下の将兵1,370余人と共に討死した(鞍掛合戦)。
その後、鞍掛山城は廃城となった。
『「日本城郭大系14」、「現地説明板」ほか参照』
現況・登城記・感想等
鞍掛山城は、ハイキングコースとして遊歩道が整備されているが、明瞭な遺構は全く残っていないようだった。
また、本丸をはじめ、曲輪も狭いというか、平坦地はほとんどないに等しく、籠城したという2千6百もの兵が、何処に居たのかさえ疑問で、城址碑や説明板が立っていなかったら、城跡とは気が付かないほどだ。
(2012/11/18登城して)
ギャラリー
鞍掛山城遠景
玖珂中学校運動場から鞍掛山城跡を望む。山頂の展望台が見える。
林間広場の登城口と登城道
玖珂中学校の西側を北上して老人福祉関係の施設前から山の西麓を回り込む道を進むと鞍掛山の中腹の登山口まで車で登れる。案内板に、山頂の本丸跡まで317mとある。こちらは、搦手のようだ。登城道は、遊歩道として綺麗に整備されているが、かなり急な坂道(階段)が続きます。
山頂の本丸跡
登城口から10分弱で、山頂の本丸跡に辿り着く。本丸とはいえ、やっと展望台が建てられる程度で、非常に狭い。また、途中にも、狭い休憩場所がある程度で、堀切や土塁、曲輪跡などの遺構らしきものはない。
山頂からの眺望
山頂(展望台)からの眺望は良く、玖珂町の町並みと、その向こうの山並みの景色は素晴らしかった。
二の丸へ
本丸跡から、反対側へ下りて行くと、すぐに緩やかな上り坂になり、登り切ったところが二の丸跡らしい。この、本丸と二の丸の間は、往時は堀切でもあったのだろうか?
二の丸
城址碑の立つ狭い平坦地が二の丸らしいが、この狭い曲輪では、どの程度の人数が居住、或いは待機できたことやら。
城址碑
二の丸跡には城址碑が立ち、「古戦場鞍掛城址」と刻まれている。
このあと、さらに少し下りて行ったが、やはり広い平坦地はなかったが、大手から登って来たら、山麓付近には曲輪等があるのだろうか?