筑前 秋月城(朝倉市)

風情ある石垣と水堀、そして瓦坂

古処山の麓「筑前の小京都」に構えた秋月黒田氏246年の居城

所在地

福岡県朝倉市(旧甘木市)秋月野鳥、秋月中学校周辺

形状

平城

現状・遺構等

現状:秋月中学校他
遺構等:移築黒門(大手門)、長屋門、瓦坂、石垣、堀、碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2007/02/10

歴史等

秋月氏は平安中期の筑前の武将大蔵春美を祖先とする。建仁3年(1203)、原田種雄が鎌倉幕府の2代将軍・源頼家から秋月荘を与えられ、地名をもって秋月氏を称したのがその始まりである。種雄は古処山山頂に城を築き麓に居館を構えた。これが秋月城の前身となった。その後、秋月氏が16代385年間この地を治めた。
しかし、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州征伐の際、秋月種実は大友氏に敵対し、島津氏に加担したため、7万もの大軍に城を取り囲まれ降伏した。古処山城は破却され、種実は日向財部に移されたが、関ヶ原の戦後3万石を安堵されて日向高鍋藩主となり、秋月氏は幕末に至る。
関が原の戦の戦功により黒田長政が筑前に入部。元和9年(1623)長政の遺言により三男・長興が5万石を分与され秋月に入った。長興は、古処山城の麓の館を改修し居城した。その後、秋月黒田氏は12代246年続き明治を迎えた。
『参照:「現地説明板」、「秋月郷土館内資料館説明書」』

現況・登城記・感想等

秋月は山あいの小さな町である。そして、武家屋敷や土塀が残り、それが山並みと相俟って、まるで江戸時代にタイムスリップしたような静かな集落である。
橋を渡って杉の馬場(今は桜並木)を歩いて行く秋月藩藩校・稽古館跡に建つ秋月郷土館があり、その先に堀と石垣が伸びている。石垣の上の本丸跡は中学校の敷地になっている。
堀には瓦が縦に埋め込まれた瓦坂が架かっており、その苔むした上品な姿が何とも云えない雰囲気を醸し出している。さらに歩いていくと、中学校(本丸跡)への登城口、そして長屋門が見えてくる。堀の苔の緑と長屋門とその石段・石垣の光景も実に絵になる。さらに奥へ歩いて行くと、垂裕神社の参道に、かつて大手門であった黒門が移築されている。この門は、古処山城の搦手門を秋月城に移築したものだそうである。
城の遺構としての見所はこれだけであるが、城跡・城下町・山並み等々が一体となって調和のとれた風景の中を散策するのは楽しく、心が和む。さすが、「筑前の小京都」と云われる所以である。
(2007/02/10登城して)

ギャラリー

杉の馬場手前の橋の上から
登城始めて、いきなりこの光景に!!筑前の小京都・秋月の面目躍如たる光景ではないだろうか

杉の馬場
今は桜並木になっているが、昔は両端に大樹の杉があったためその名がある。桜並木になったのは、明治38年(1905)日露戦争戦勝記念の遺産である。

石垣と堀、そして瓦坂 ~クリックにて拡大画面に~
杉の馬場を進んで行くと、やがて堀と石垣の処に出る。石垣上の本丸跡は秋月中学校の敷地になっている。

瓦坂
瓦を縦に並べて土の流れを防ぐ。この坂を通って大手門「黒門」に至った。瓦が縦に埋め込まれた瓦坂が架かっており、その苔むした上品な姿が何とも云えない雰囲気を醸し出している。


秋月中学校横辺りまでは水堀になっているが、その先の長屋門下辺りは水が無く堀底に苔や草が生えている。この辺りも往時は水堀だったのであろうが、この光景も風情があってなかなか良いものだ。

長屋門①
堀の苔や草の緑と長屋門とその石段・石垣の光景も実に絵になる。
この門は、城の裏手門として使用されていた。秋月城内で唯一現地に残る建物である。

長屋門②

長屋門③

黒門
垂裕神社の参道に、かつて大手門であった黒門が移築されている。この門は、古処山城の搦手門を秋月城の大手門として瓦坂の奥に移されたといわれる。

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