本丸跡(背後には松浦丹後守政の廟所と招魂碑)
松浦宗家が武辺城から移り住んで本拠とした城、平戸松浦氏の夜襲で落城
読み方
だいちあんじょう
所在地
佐世保市瀬戸越3丁目、大智庵城跡公園
松浦鉄道「泉福寺駅」の北東約250mで、大智庵長命寺の東側の山が城跡。国道204号線と国道498号が交わる「瀬戸越し」信号から国道498号線で600m程東進すると、右手に「大智庵城跡」の案内板がある。そこを急角度に右折し、細くて急な坂道を登って行く(ちょっと心配になるかも)。150m強登って行くと、行き止まりになり、城跡公園への入口になる。その左手に大智庵長命寺の駐車場がある。
大智庵長命寺:佐世保市瀬戸越3-11-21
所要時間
駐車場から本丸まで約3分
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 大智庵城跡公園
【遺構等】 曲輪、空堀、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2012/11/11
歴史等
宗家松浦氏は、今福・相神浦、生月などの地を領して相浦の武辺城を居城としていたが、延徳2年(1490)14代丹後守定(さだむ)の時、交通の要衝であったこの地に大智庵城を築いて本城を移した。
しかし、明応7年(1498)12月、平戸松浦氏の夜襲を受け、一夜にして落城し、城主の宗家松浦氏15代丹後守政(まさし)は戦死し、その子の幸松丸は人質として平戸に捕えられてしまった。
幸松丸は、その後旧臣に救出され、唐船城(佐賀県有田町)で育った後、大宰府の小弐氏の後ろ盾もあり、宗家16代親(ちかし)として旧領を回復し愛宕山に飯盛城を築いた。
『「現地説明板」、「現地松浦丹後守政廟所説明板」他より』
現況・登城記・感想等
大智庵城は、低いがかなり切り立った山の上にあるのが、佐世保市の中心にも近いので、残念ながら、公園として整備され、周囲には民家が密集しており、遺構等はほとんど残っていおらず、松浦丹後守政の廟所と説明板が立っているだけです。他の街なら残っているかも知れませんが、長崎や佐世保では、この程度の山なら、山頂部まで家が建てられるのは常識なのです(*^_^*)。
説明板によると、山腹に空堀が残っているとあったが、急崖の上、昨夜から今朝方までの雨、そして強烈な藪で、とても下りて見に行く気にはなれなかった(/。ヽ)。
(2012/11/11登城して)
登城口
登城口には「大智庵城跡公園」の碑(写真右)が立っている。その脇の左へとカーブしたなだらかな階段を3分ほど登って行くと本丸跡の広場へ出る。
松浦丹後守政(まさし)の廟所
本丸跡には、招魂碑が立っているが、その脇に「松浦丹後守政の廟所」とその説明板、そして、大智庵城の縄張り略図の載った説明板が立っている。