都於郡城二の丸と三の丸間の堀切
日向一円を支配した伊東氏の本拠の城、広い曲輪と巨大空堀が残る
読み方
とのこおりじょう
別名
浮舟城
所在地
宮崎県西都市都於郡町
【アクセス】
都於郡小学校の北側の通りを500m程西進すると城跡見学者用の駐車場があります。町のあちこちに案内板があるのですぐ分かると思います。城跡は駐車場の北西側です。駐車場に案内図がありますが、微妙に違っていますので、地元の方に聞いた方が良いと思います。
都於郡小学校:西都市大字鹿野田6111、電話098-344-5143
所要時間
駐車場から本丸まで3~4分、今回の見学時間は1時間50分でした。
形状
山城(台城)
現状・遺構等
【現状】 城址公園
【遺構等】 曲輪、空堀、土塁、石碑、説明板
満足度
★★★★★
訪城日
2013/11/30
歴史等
建久元年(1190)、工藤祐経は鎌倉幕府から日向国の地頭職に任ぜられた。祐経の嫡男・伊東祐時から6代目の祐持は足利尊氏に従って勲功を認められ、建武2年(1335)都於郡300町を賜り、建武4年(1337)4月一族を連れて伊豆から下向し都於郡城に居城した。この祐持が都於郡伊東氏の初代となる。
そして、2代祐重がさらに城を改築したと伝えられている。
その後、約240年間、日向一円を掌握した伊東氏が本城としたが、天正5年(1577)12月、10代目伊東義祐の時、島津氏に敗れ都於郡城は落城し、伊東氏は一族を連れて豊後に落ち延びていった。
その後は島津氏の持ち城となり、その将鎌田政親を城主とした。
しかし、天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州征伐後は、佐土原藩の領地となり、さらに元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。
『「現地説明板」、「日本城郭大系16」参照』
現況・登城記・感想等
大いに期待しての登城でしたが、その期待を遥かに超える素晴らしい城跡で、文句なしに満足度★★★★★です(*^_^*)。
さすが、伊東氏の本拠の城であり、城域が途轍もなく広く、本丸・二の丸・三の丸を中心とする本城以外にも、向ノ城・東ノ城・日隠城・南ノ城・中尾城などの出城も含めた周辺一帯を城域として要塞化しているのです。
今回は、本城周辺だけをたっぷり時間をかけて見て廻りましたが、本城の各曲輪は実に広く、さらには、それら曲輪間の空堀は大規模というよりも巨大といった方が相応しく、全てが圧倒されるようなスケールですw(*゚o゚*)w。
その上、実に綺麗に整備され、曲輪や土塁、城壁に生えている木はごく僅かで、何処からも見通しが利き、他の曲輪まで見渡せます。しかも、その光景が何ともかっこいいです。
さらには、曲輪から堀底に至るまで芝生が張られていて、気持ちよく見て廻れます。
兎に角、「素晴らしい!!」の一言に尽きる城跡です(*^_^*)。
(2013/11/30登城して)
ギャラリー
都於郡城跡案内図(現地案内板より)
都於郡城は、本丸・二の丸・三の丸を中心とする本城以外にも、向ノ城・東ノ城・日隠城・南ノ城・中尾城などの出城も含めた周辺一帯を城域として要塞化していました。
都於郡城本城縄張略図(現地案内板より)
ある意味シンプルで分かりやすい案内板ですが、駐車場から本丸への道が微妙におかしいので気を付けて下さい。私は、駐車場脇の道を真っ直ぐ行ってしまい御蔵跡らしき林の中へ入って行ってしまいましたw(*゚o゚*)w。
本丸東側城壁
駐車場から本丸へ向かうと、左手にこの切岸というか、荒々しい本丸東側の城壁が見えて来ます。高さ10m以上はゆうにあります。これを見た途端に期待でワクワクして来ました。
正面に奥ノ城が・・・
左手に本丸城壁を見ながら進むと、正面に奥ノ城の城壁(切岸)が見えて来ます。そして、本丸との間には堀切(写真左の方)が見えます。
本丸への石段
本丸へ登る石段は堀底道になっており、上から攻撃されたらひとたまりもありません。
本丸東側の虎口
本丸虎口は、枡形虎口のようになっています。
本丸南部分
本丸は、兎に角、だだっ広いです。写真1枚には収まらないので2枚に分けます。また、実際にも、大きく2つに分かれていたようです。
本丸北部分
本丸北側には中央部に土塁があります。蔀かとも思いましたが、分かりません(/。ヽ)。また、伊東満所(マンショ)の銅像が立っています。マンショは、豊後へ落ち延びた10代当主伊東義祐の娘(通称「町の上」)の子なのです。
本丸土塁
本丸周囲は、高くはないが分厚い土塁に囲まれています。
本丸から奥ノ城を
本丸の北側には奥ノ城があります。当写真は、本丸から堀切越しに奥ノ城を見たものです。
庭園跡
本丸内には庭園があったようで、本丸中央部に、いろんな形をした石が置かれています。
本丸と二の丸間の堀切を
見事な堀切で、これを見下ろした時、感激しました。
本丸西側の虎口
二の丸へ向かうには、一旦、二の丸との間の堀切へ下りて行きます。
本丸と二の丸間の堀切
圧倒されるような巨大堀切です。底幅20m、深さ10m以上あります。
二の丸南下の腰曲輪
巨大空堀を渡り、二の丸南東の道を登って二の丸の上へ向かいます。左手下に、二の丸南下に設けられた腰曲輪が見えます。尚、腰曲輪の左下に見える道は、三の丸や西ノ城方面へ向かう道です。
二の丸
二の丸も相当な広さです。あまりの広さに、今回、歩数を計るのを忘れました( ̄ー ̄;。二の丸は、東側(正面)と北側(左)に土塁が設けられています。
二の丸東側の土塁
特に、東(本丸)側の土塁は分厚い上に、高さも3mほどあります。
二の丸北側
高さ10m以上ある上、急傾斜で怖くなるような切岸です。ここからは、とても攻めて来れそうにありません。
二の丸から堀越しに三の丸を望む
二の丸からは堀切越しに三の丸がよく見えます。
二の丸から三の丸と西ノ城方面を望む
二の丸からは、三の丸のみならず、西ノ城方面もよく見えますが、この光景がなかなかのものです。
二の丸と三の丸間の堀切
この堀切も、両側の曲輪(左が二の丸、右が三の丸)上まで10m以上はゆうにあります。堀底幅が2~3mほどと狭いだけに、かえって上から覆いかぶさってくるような迫力があります。
三の丸・西ノ城方面へ
二の丸南の腰曲輪の下の道を通り三の丸・西ノ城方面へ向かいます。正面は西ノ城群の北端の曲輪で、右上は三の丸南下の腰曲輪です。三の丸へは、正面の西ノ城の手前を右へ登って行きます。
三の丸と西ノ城間の堀切
この堀切も、両側曲輪(左が西ノ城、右が三の丸)上まで10m近くありますが、ここまで巨大堀切を散々見て来たので、普通に思えてしまいます(笑)。
三の丸
三の丸は都於郡台地の北西端にあり、三方断崖絶壁で、山麓には三財川が流れて自然の外濠をなし、西ノ城と同様、斥候(物見)の役割を果たしていたと思われる。
また、伊東氏48城と連絡する狼煙台があった場所と思われる。(現地説明板より)
三の丸から北西方面を望む
三の丸西側の切岸
三の丸は、西側から北側にかけては急傾斜の切岸に加えて、その下も自然の急崖になっています。
三の丸から堀切越しに二の丸を望む
三の丸から西ノ城方面を望む
西ノ城は、手前から左奥にかけて幾つかの曲輪からなります。以下、説明板より、
三の丸とは堀切を隔てて南隣にあり、三の丸と共に眺望がよく、別名「斥候(ものみ)城」とも言い伝えられ、外敵からの侵入に備えての城であったと思われます。
本丸と奥ノ城間の堀切①
西の城群を見終えてから、三の丸と二の丸下を通り、本丸・二の丸間の堀切を北へ向かい、さらに本丸の北側下を東進すると、本丸と奥ノ城間の堀切(左が奥ノ城、右が本丸)へ出ます。これまた、大規模な堀切で、両側曲輪上まで10m以上はあります。
本丸と奥ノ城間の堀切②
当写真は、堀切の東端から撮ったものです。
奥ノ城への虎口
奥ノ城へ登って行くと、真っ直ぐ登って行けず、正面に土塁が設けられています。
奥ノ城虎口を城内から
奥ノ城の虎口も一種の枡形虎口の体をなしていますが、両側へ登れるようになっています。
奥ノ城
奥ノ城は、城主一族の大奥として、奥方や侍女をはじめとして家族の住居がありました。天正5年(1577)12月の落城の際には、一族は家臣と共に、この奥ノ城から豊後の方へ落ち延びていきました。(現地説明板より)
奥の城土塁
奥の城の南側(本丸側)にだけ、高さ2mほどの土塁が設けられています。当城跡では、二の丸東側の土塁に次いで高くて分厚い土塁です。