祇園之洲公園として整備された砲台跡
島津斉彬が築いた砲台で、薩英戦争では一番の激戦地となった
読み方
ぎおんのすほうだい
所在地
鹿児島県鹿児島市清水町(祇園之洲公園)
清水小学校の日豊本線を挟んで反対(東)側にある多賀山公園の南麓にある祇園之洲公園が砲台跡地
清水小学校:鹿児島市清水町8-15、099-247-1010
形状
砲台
現状・遺構等
【現状】 祇園之洲公園
【遺構等】 石垣、砲台台座、石碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2012/11/17
歴史等
この辺り一帯は昔、遠干潟で祇園浜と呼ばれていたが、島津家27代斉興のもとで藩政改革を断行した調所広郷が、兵士の屯集所として埋め立てた。
その後、イギリスやフランスなどの船が次々にやって来るようになると、薩摩藩主斉彬は海防の必要性を感じ、各地に砲台を造った。祇園之洲砲台は、嘉永6年(1853)に完成した。
文久3年(1863)の薩英戦争では、一番の激戦地となった。
正午に始まった砲撃戦は3時間を経過し、双方に相当の被害が出ていた。その時、最後尾で祇園之洲砲台を攻撃していたレースホース号が、目に前で浅瀬に乗り上げたが、すでに砲台は、イギリスの誇るアームストロング砲で打ち砕かれ、藩士たちは指をくわえて敵艦が救出されるのを見送るしかなかった。
イギリス側の死傷者は63名、薩摩側の死傷者は13名であったが、城下の被害はすさまじく、西洋との力の差を知った薩摩藩は、この戦いを契機に開国へと動き始めた。
『現地説明板他より』
現況・登城記・感想等
祇園之洲砲台跡は、祇園之洲公園となり、対岸の石橋記念公園とともに綺麗に整備され市民の憩いの広場になっている。
そして、丸くカーブを描く護岸の石垣や砲台の石垣が良好に残っているというか、復元整備されている。
また、甲突川に架かっていた石橋が移設されている。
(2012/11/17訪れて)
ギャラリー
薩英戦争戦闘図(現地説明板より)
祇園之洲砲台跡
砲台内側の写真であるが、丸くカーブを描いた形になっているのが分かる。
祇園之洲砲台の護岸石垣を北側から見る
祇園之洲砲台は、薩英戦争によって散々に打ち砕かれたが、護岸や砲台の石垣が復元されて綺麗な公園になっている。
旧薩摩藩砲台跡の碑
「舊薩藩砲臺跡」と刻まれている。
薩英戦争記念碑