大隅 舞鶴城(霧島市)

舞鶴城の朱門

関ヶ原合戦後、隣国の脅威を感じ島津義久が築いて富隈城から移り住んだ城

別名

国分新城、国分御屋形

所在地

鹿児島県霧島市国分中央2-5-1
【アクセス】
国分高校から国分小学校一帯が城跡です。
国分高校:霧島市国分中央2-8-1、電話0995-46-0001

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 国分小学校、国分高校
【遺構等】 水堀、石垣、朱門、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2013/12/01

歴史等

関ヶ原合戦の翌年の慶長6年(1601)、隣国の脅威を感じた島津義久は、国分をそれに対抗する地として舞鶴城の築城に取り掛かった。
慶長9年(1604)舞鶴城は城下町と併せて完成し、義久は翌10年(1605)にわたって富隈城から移住し、慶長16年(1611)に死去するまでの7年間在城した。
その後、義久の三女・亀寿姫が寛永7年(1630)に死去するまでの20年間を、この城で過ごした。
その後は、この城の隣接地に、国分麓(外城)の地頭館が置かれ、明治に至った。
舞鶴城は、隼人城の南麓に築かれ、日常生活をするための屋形造りとなっており、戦時には背後の隼人城を詰めの城とした。
『現地説明板参照』

現況・登城記・感想等

国分小学校と国分高校一帯が城跡で、その南西面に水堀と石垣が残り、江戸期の外城時代の橋が2ヶ所に架けられている。
また、城内の奥向きに通じる門と思われる朱門も移築されているが、これが、なかなかかっこいい。
(2013/12/01訪れて)

ギャラリー

国分小学校から国分高校の南西面に残る水堀跡
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水堀に架かる石橋と朱門
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朱門
この朱門は、当初舞鶴城内にあったものを移築したと言われているが、その根拠は定かではないという。門が朱で塗布されていることや、門の形状も比較的小さいことから、城内にあったとすれば奥向きに通じる門ではなかったかと推察されるという。
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石碑
水堀跡の前には、「舞鶴城屋形跡」と刻まれた城址碑と舞鶴城についての説明が刻まれた石碑が立っている。
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島津義久伊呂波歌
もう一つの橋の前面両側には、義久のいろは歌の一部が刻まれた燈籠が建てられています。
「いろは歌」といえば、義久の祖父で、島津家中興の祖といわれる島津忠良(号は日新斉・じっしんさい)のものが有名ですが、義久のもあるんですね。

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水堀前から詰城の隼人城跡を望む
水堀前から、東北東後方には詰の城の隼人城跡の山がよく見えます。
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