ホーフブルク宮殿ミヒャエル門
栄華を極めたハプスブルク帝国640年の王宮
ドイツ語名
Hofburg
所在地
Heldenplatz 1010 Wien
歴史等
王宮(ホーフブルク)について初めて記録されたのは、1275年のことで、そこには当時、オーストリア公国・ケルンテン公国(現オーストリア・ケルンテン州)・クランスカ公国(現スロベニアの一部)を治めていたプシェミスル朝ボヘミア王オタカル2世が13世紀にバーベンベルク家との戦いに勝利し、4つの塔を持つゴシック様式の四角い城砦を建設したと記されている。
1278年8月12日、ウィーン北西部のマルヒフェルトでの戦いで、ハプスブルク家のルドルフ1世がオタカル2世を下すと、それ以降はハプスブルク家の本拠地となり、その後700年をかけて徐々に拡張されていった。
王宮は時代とともに、棟や城砦が一つづつ増設され、同時に複雑に入り組んだ裏廊下や裏階段も徐々に増えていった。それは、ハプスブルク家の統治者は、帝位に就くと必ず前任者の裏階段を閉鎖し、新しいものを造らせたためである。
皇帝フェルディナント1世の時代になると、1534年から1566年にかけて、古い城砦はルネッサンス様式の宮殿に改築された。この時にできたのが、現在に残る最古の棟「スイス宮」である。
1611年には「アマリア宮」が完成した。
これらの建物群は、17世紀から「王宮」と呼ばれるようになった。
皇帝レオポルト1世は、これら個々の棟をつなぎ、今日見られるような王宮にするべく改造に着手した。当時、建設されたレオポルト棟は、ウィーン初のバロック様式の建築で、ハプスブルク家の人々の居室があった。
跡を継いだ皇帝カール6世は、先帝レオポルト1世の構想を実現させるべく、従来の城砦の中心を新しい宮殿に建て替え、ファサードを市壁のところまで拡張しようとし、最初に帝国宰相棟を築いた。この帝国宰相棟は1806年までは神聖ローマ帝国の宰相府として、さらに、その後は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の居館として利用された。
19世紀初頭、皇帝フランツ2(Ⅰ)世は、式典ホールとフォルクス庭園の建設を命じ、また、ナポレオンに勝利したライプチヒの戦いから10周年を記念してブルク門(王宮外門)も建設した。
そして、19世紀半ばには、王宮はさらに増築された。1869年に、ウィーンを囲んでいた堡塁が解体されると、王宮外側の敷地に巨大な公共広場「カイザーフォールム」を建設するプロジェクトがスタートした。この大掛かりな建設プロジェクトには、多くの反対もあり、一部は頓挫したが、ルネッサンス様式の要素を取り入れたバロック様式の新王宮東棟が完成した。
1916年に、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が死去し、1918年の共和国が成立すると、建設プロジェクトは未完成に終わった。
『現地購入誌・皇帝の都ウィーンほかより』
現況・登城記・感想等
ホーフブルク宮殿は、さすが、太陽の沈まない国と云われたハプスブルク帝国の640年にわたる王宮だけあって兎に角『スゴイ』の一言です!!
広大な敷地の中に18の棟が複雑に入り組み、2,500以上の部屋があるのだという。それらの棟は時代とともに増改築を繰り返したために、ゴシック様式、バロック様式、ルネッサンス様式等々、いろいろな建築様式が見られる。そして、それらはいずれも豪華なだけでなく、歴史の重みを感じる。
現在、王宮には、オーストリア大統領府、国際会議場、ウィーン少年合唱団がミサで歌う礼拝堂、スペイン乗馬学校などが入っている。また、新王宮には、民族学博物館、美術史美術博物館分室、エフェソス博物館、楽器コレクションなどがある。
ただ、あまりにも複雑に入り組み、迷路のようで、パック旅行の僅かなフリータイムを利用して廻る我が身には・・・・(/。ヽ)。
尤も、それら豪華な建物を見て廻るだけでも見応え充分だった(*^_^*)。
(2012/06/03登城して)
ギャラリー
王宮案内図(現地説明板より)
ミヒャエル門
ウィーンの高級ショッピングストリートである「コールマルクト」を南へ進むと、王宮への入り口にあたるミヒャエル門へ出る。門の前にはミヒャエル広場があり、ローマ時代のウィンドボナ(ウィーンの語源)の遺跡が発掘されて残っている。19世紀末に完成したというミヒャエル門は円弧上に建物があり、もともとはローマの凱旋門を模して建てられた門で、ドームの高さは37mあり、王宮の中でも、まさにハプスブルク家の強大な権力の象徴だ。
ウィンドボナ(ウィーンの語源)の遺跡
この遺跡は、1990年の工事中に発見されたそうで、ウィーン市内には、他にも何箇所か発見されているそうだ。
王宮中庭
ミヒャエル門をくぐるとスイス門(写真には写ってないが、手前にある)、レオポルト棟(写真左)、アマリア棟(写真正面奥)、宰相棟(写真右)に囲まれた王宮中庭へ出る。アマリア棟は1611年に完成し、ヨーゼフ1世の皇妃アマリア・ヴィルヘルミーネ・フォン・ブラウンシュヴァイクが夫の死後、ここで暮らしたことから、この名前がつけられた。また、エリザベートがこのアマリア棟を利用したという。宰相棟は皇帝の部屋があった棟で、現在はシシィミュージアムになっており、屋根の上には双頭の鷲を中心にい女神の彫像などがある。尚、シシィとはエリザベートの愛称である。中庭の中央には、最後の神聖ローマ帝国皇帝(2世)で最初のオーストリア皇帝(1世)であったフランツ2(Ⅰ)世の像が立っている。
英雄広場
右手に王宮中庭、左手にスイス門を見ながら、真っ直ぐ進むと、広~い英雄広場へ出る。英雄広場にはカール大公の騎馬像(写真やや右奥)がある。
レオポルト棟
英雄広場から振り返ってレオポルト棟を撮影。レオポルト棟は、レオポルト1世によって、17世紀に建てられたウィーン初のバロック様式建築だそうで、この棟にはハプスブルク家の人々の豪華な部屋があった。現在は、オーストリア大統領の接見室として使われているそうだ。
新王宮
英雄広場の東には新王宮が建っている。新王宮は1881年から建設が開始され1913年にようやく完成した。尚、この反対側には全く同じ宮殿がフォルクス庭園にも建てられる予定であったという。現在は、民族学博物館、美術史美術博物館分室、エフェソス博物館、楽器コレクションなどがあるそうだ。それにしても、優美なカーブを描いた姿がかっこいいですね。
双頭の鷲とオイゲン公像
新王宮の前には、トルコ軍からウィーンを救った英雄プリンツ・オイゲン公の騎馬像が立っている。そして、新王宮の屋根にはハプスブルク家の象徴「双頭の鷲」が。
ブルク門
ブルク門は1824年に、ライプツィヒの戦いでフランス軍を破った記念に建てられた門で、新王宮へ入るための門の役割をしている。門の南側はウィーン旧市街の周囲をめぐるリンク大通りが通っている。
スイス門
スイス門は、王宮中庭とスイス宮を結ぶもので、フェルディナント一世の時代の1552年から53年にかけて宮廷建築家のピエトロ・フェラボスコによって造られた。門の名前は、王宮の警備にあたっていたスイス衛兵に由来する。
スイス宮
スイス門をくぐるとスイス宮の中庭へ出る。右側の建物は王宮礼拝堂で、ウィーン少年合唱団も参加する日曜礼拝が行われている。
ヨーゼフ広場
スイス宮から東へ向かうと、ヨーゼフ広場へ出る。ヨーゼフ広場は皇帝ヨーゼフ2世に因んでつけられた名前で、広場の中央にはヨーゼフ2世の騎馬像が立っている。マリア・テレジアの時代に、広場を囲む棟が結合され、1744年から48年にかけてレセプションホールが増築された。1992年の火災で損傷を受けたが、1997年に修復された。
この写真は、ヨーゼフ広場の南東から撮ったもの。広場中央にヨーゼフ2世の騎馬像が立ち、その奥にレドゥーテンホール、左が大広間(国立図書館)が建つ。レドゥーテンホールはコンサート会場になっているが、その奥にはスペイン式乗馬学校がある。
大広間(国立図書館)
ヨーゼフ広場の南西には、美しい大広間で知られる国立図書館がある。この大広間は、もともと図書館としてだけでなく、音響効果のよいコンサートホールとして使うために設計されていたが、そのことは何世紀もの間忘れ去られ、コンサートホールとしての機能が再発見されたのは最近になってからのことだそうだ。
大広間(国立図書館)の上の彫像①
大広間(国立図書館)の上には、ユニークな彫像が。これは、「嫉妬と無知に勝利する古代ローマの知恵の女神ミネルバ」。
大広間(国立図書館)の上の彫像②
天球を背負う巨神アトラスと、これまた天球を背負う女神の彫像が・・・。
アルベルティーナ美術館(左手前)と聖アウグスチノ教会
アルベルティーナ美術館は、マリア・テ レジア女帝の娘婿のアルベルト・フォン・ザクセン・テシェン公爵が創始者だそうで、 デューラー、ルーベンス、シーレ、セザンヌ、クリムト、ココシュカ、ピカソ、ラウシェンバーグな どの名作が、順次、展示されているという。
聖アウグスチノ教会は、宮廷付属の教会として14世紀に建造され、ハプスブルク家の多くの結婚式が行われた。マリア・テレジアとロートリンゲン公、マリー・アントワネットとルイ16世(代理人)、フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートもここで結婚式を挙げたそうだ。
尚、写真右奥の建物は厩舎。