ネス湖から望むアーカート城
スコットランド独立戦争の舞台に。王城となったがジャコバイト軍による奪回阻止のため爆破・廃城に
英語名
Urquhart Castle
所在地
Drumnadrochit, Inverness, Inverness-shire IV63 6XJ scotland
訪城日
2014/07/18
歴史等
12世紀初めに”マリ”の男たちが反乱を起こしたが、スコットランド王アレクサンダー2世はそれを鎮圧し、アーカート領に臣下トーマス・ル・ダーワード卿を送り込み守備した。まもなくダーワード卿は死亡したが、その息子アラン・が跡を継ぎ、最初の城を築いたと思われる。
1275年、アラン・ダーワードは後継者のないまま死亡すると、イングランドからバデノッホ及びロッホアバー卿ジョン・コミンが国王となったが、スコットランドがイングランドに対して独立戦争を起こしたため、その支配は長続きしなかった。
1296年、イングランドのエドワード1世がスコットランドに侵攻し、城が次々に落とされが、アーカート城もその一つであった。
1297~98年、地元の大貴族アンドリュー・ド・マリ卿はウィリアム・ウォレスとともに軍を率いて南進し、スターリング城の戦いでイングランド軍を破った。それを見て、アーカート城を守っていたイングランド駐屯兵は城を明け渡し、1298年、アーカート城は再びスコットランドの手に戻ったと思われる。
しかし、1303年、再びエドワード1世の襲撃を受け、占拠されてしまった。
その後、1307年、スコットランド王ロバート・ザ・ブルース(ロバート1世)がグレート・グレン峡谷を進軍し、インバーロッキー城(フォートウイリアム)・アーカート城・インヴァネス城を落城させ、これ以降、アーカート城は王城となり、城守が置かれた。
ロバート・ザ・ブルースの死亡後の1332年、パース付近のダップリンでスコットランド軍が敗れたことから、またもスコットランドは独立の危機に直面する。スコットランドの城が次々と陥落していく中で、持ちこたえたのはアーカート城など僅か5城で、ハイランド地方ではアーカート城のみである。
その後、今度はスコットランド西部に勢力を誇るマクドナルド一族の襲撃をしばしば受け、1395年にはドナルド・マクドナルドが城を支配下におさめた。それ以降150年間はマクドナルド一族による圧政のもとアーカートの人々の生活は悲惨なものとなった。
1476年スコットランド王ジェームズ3世はアーカート城を同盟国のハントリー伯爵ジョージ・ゴードンに引き渡した。ハントリー伯爵は、アーカート領の治安回復をフルーキー卿ダンカン・グラントに委ねた。 国王はグラントの治世を喜び、1509年グラント一族が正式にアーカート領を与えられ、城は再び豪族の館になった。グラント一族による城の所有は1912年まで続いたが、西からの襲撃は途切れることがなかった。
1688年、ジェームズ2世が名誉革命で王位を追われたとき、リュドヴィック・グラントは追放されたジェームズ2世を支持するジャコバイト軍が城を包囲した時も、1690年5月にクロムデールの戦いでジャコバイト軍本体が敗北するまで、よく持ちこたえた。そして、兵士がついに去ると、城が再びジャコバイト軍に狙われないよう、駐屯軍は数棟の建物を爆破して去った。
その後も、地域住民が石組みその他の資材を再利用のために持ち去るなどして、荒廃していった。
『「現地購入誌・公式ガイドブック」、「ウィキペディア」他参照』
現況・登城記・感想等
アーカート城は、1692年にジャコバイト軍の手に落ちるのを阻止するため部分的に爆破して廃城とし、その後さらに地域住民が石組みその他の資材を再利用のために持ち去るなどして、城の遺構は損なわれたとはいえ、壮大な石造りの城跡には、グラントタワー、天守、城門等々の石積みが良好に残り、その姿はまさに「滅びの美」を感じさせてくれ、ロマンチックでさえあります。
アーカート城は単なる砦ではなく、大勢の従者や夫人を従えた豪族の別邸、また賓客の泊まるホテルであり兵舎・裁判所・刑務所としての役割も果していたこともあり、規模が大きいだけでなく、複雑な構造をしており、幾重にも重なる石積みの姿は見応えがあります。
中でも、グラントタワーから眺める天守方面と天守から眺めるグラントタワー方面の石積みが幾重にも重なる光景は見応え満点です。 また、山側から見下ろすアーカート城とネス湖の景色も絵になります。
さらには、大規模な堀と城門・石橋・跳ね橋跡・天守などの石積みの光景が実にかっこいいです。兎に角、何をとっても見応え充分なものばかりで感動しっ放しでした(*^_^*)。ヨーロッパで、現存或いは復元された城内を見て回ったことはありますが、このような廃墟と化した城跡を遠くからから眺めるだけでなく、登城するのはオーストリアのケーンリンガー城以来です。しかも、今回は1時間半ほどかけて、じっくり見て回ることができ大満足です
(*^_^*)(*^_^*)(*^_^*)。
(2014/07/18登城して)
ギャラリー
アーカート城縄張図(現地購入誌より)
1堀、2drawbridge(跳ね橋跡) 、3石橋、4城門、5Gatehouse(門衛所、門楼)、6牢屋、7Gatehouse(門楼、穀物乾燥用の窯)、8Upper Bailey or Service Close(南郭)、9Motte and shell keep(天守)、10Doocot(鳩小屋)、11Smithy?(鍛冶場?)、12Water gate(水際門)、13馬小屋?、14Nether Bailey or Outer Close(外郭)、15Chapel(礼拝堂)、16Great Hall(大広間)、17Kitchen(台所)、18Inner Close(内郭)、19台所、20Grant Tower(グラントタワー)、21穀物乾燥用の窯、22城外の集落跡
【登城記】
我々のツアーは、まずはネス湖北西部の船の発着場から遊覧船でアーカート城へ・・・。多くのお客さんはアーカート城で下船したが、我々は船からアーカート城を見ただけで、再び発着場まで戻り、そこから再びバスでアーカート城まで行き、アーカート城見学です。何とも効率の悪い行程でした。
【ネス湖から】
遥か前方にアーカート城が
ネス湖クルーズは、ネス湖北西岸から南へ向かいます。目を凝らして見ると、遥か彼方にアーカート城が見えて来ました。
ネス湖から望むアーカート城全景
アーカート城は、ネス湖に突き出す岩盤の岬の上に築かれています。
ネス湖から望むアーカート城・グラントタワー
【陸側から】
ビジターセンターのテラス
アーカート城の陸側には城見学者用のビジターセンターが建てられています。ビジター・センターはアーカート城とネス湖近辺の歴史に関する展示を行っています。ビジターセンター前のテラスからはアーカート城全容を見下ろすことができます。
ビジターセンターのテラスからアーカート城とネス湖を望む
テラスから見下ろすネス湖とアーカート城の光景はなかなかのものです。写真左の塔はグラントタワーで、右の山部分が、当初ピクト人が砦を築き、13世紀頃に建設された初期の頃の城です。
ビジネスセンターのテラスからアーカート城・グラントタワーを望む
投石器
城内へ向かって歩いて行くと、巨大な投石器が設置され、その下には丸い大きな石も置かれていましたが、映画撮影で使われたセットがそのまま残されているのだそうです。1296年にイングランドのエドワード1世がアーカート城を破壊する時に投石器が使用されたそうですが、70kgの巨石を200m先まで投げることが出来たそうですw(*゚o゚*)w。
空堀
アーカート城はネス湖に突き出す岩盤の上に築かれていますが、岬の付け根部分を空堀で断ち切っています。堀は、岩を削って掘られ、最大で幅30m、平均で深さ5mありますが、城の長い歴史の中でだんだんと幅が広げられ、深く掘り直されていったそうです。
石橋と跳ね橋跡①
堀には石橋が架かっています。石橋は中程で途切れていて、往時は跳ね橋が架かっていましたが、現在は固定式の橋が架けられています。
石橋と跳ね橋跡
現在では、跳ね橋と城門の間の石橋は単なる通路になってしまっていますが、往時は石橋の両側には石造りの壁があり、矢狭間や関門、また跳ね橋を上げたままでも兵が外の敵に突撃していくことが出来るように造られた出撃口があったそうです。
石橋両側の石造りの壁は、写真のように北側(写真では通路の右側)のほんの一部だけが残っています。尚、当写真は門楼の上から撮ったもので、写真左上の建物はビジターセンターです。
城門
2つの塔(門楼)が両側にある城門は一階、二階部分がほぼ往時のまま残っています。上階部分は1689~90年に起きたジャコバイトの蜂起の後に、兵士たちが数棟の建物を爆破した際に崩れ落ちたと考えられています。城門は落とし格子と二重の扉に守られ、門衛室が両側にあったそうです。そして、城門上にはいくつか部屋があり、城守(城の番人)の宿泊施設として使われていたようです。
壊れた門楼の一部
城門(門楼)脇には、1690年の爆破以降に崩壊した石組みが残されています。
門衛所
門衛所へは城門内北側(入って左側)にある扉から入ります。かつては城門の両側に門衛所があり、南側にあったもう一つの門衛所は、のちに穀物乾燥所に転用された。城門両側の門楼上(城守の住居跡)へは、見学用に設置された螺旋階段が設けられています。北側の門楼は牢屋(写真やや右)へ通じており、写真右側の階段を登って行き覗くことができます。
牢屋
穀物乾燥所(元門衛所)
城門の南側の門楼の一階は、元は門衛所でしたが、のちに穀物乾燥所に転用され、穀物を乾燥、貯蔵し、挽いて粉にする工程が行なわれました。
城守(城の番人)の住居
城門の二階には広間と寝室がある二部屋の住居がありました。これは城守(城の番人)の住居で、ここから入城を管理できました。門衛所の上に位置する部屋が広間(リビングルーム)で、穀物乾燥所の上にある小部屋は寝室でした。
南側の門楼上から北側の門楼を
上の階は崩れ落ちてしまっているとはいえ、この廃墟の感じが何とも言えずいいですね(*^_^*)。
北側の門楼上から城の北西部の城壁を
そして、この大きく崩れながらも残る城の北西部の城壁の姿も哀愁を誘います。
グラントタワー
城門をくぐり抜けると左手に見えるのがアーカート城の建造物を代表する「グラントタワー」です。この塔は、塔を築いた一族の名をとって「グラントタワー」として知られています。
1400年までに城の心臓部は南郭部分から岬の北側(城門から左)に移築されました。1509年以降グラント一族がそのさらに北側に家族の住居「グラントタワー」を建てました。
南側の壁の大部分は1715年2月の大嵐の際に崩れ落ちました。グラントタワーは5階建てで、入口は2階の大広間に通じていました。
グラントタワー内へ・・・
グラントタワーへの出入りは厳しく制限され、警備も厳重でした。内郭に面した2側面には石積みで固めた堀があり、タワーの防備を強化し、タワー入口へは跳ね橋を渡るしかありませんでした。
螺旋階段
グラントタワーは5階建てで、狭くて急な螺旋階段を登ります。上り下りする人が多いのですが、狭くてすれ違うのが大変でした。
グラントタワー中層階①
グラントタワー中層階②
グラントタワー最上階から外郭と南郭を望む
グラントタワーから望む外郭と南郭(初期の頃の城部分)の光景は絵になります。前景が外郭に面する大広間の地下室、その向こうに水際門、右奥に南郭の頂上部のshell keep(天守)が見えます。外郭は岬の外側を縁取るように城壁で囲まれています。
尚、現在ではほとんど残っていませんが、水際門と城門の間には壁があり、南郭を城の他の部分から分離していたようです。即ち、アーカート城は、内郭と外郭からなる新しい城の部分と最初の頃の城である南郭の2つからなっているということです。
南郭へ向かう
グラントタワーへ登ったあとは、南郭方面へ向かいます。右は城内側から見る城門です。
大広間地下室
大広間は多目的に利用される大きな部屋で、主として正餐会場や法廷として使われました。大広間は外郭の東側にあり、ネス湖に面しています。
水際門
水際門が、砂時計型の岬の細くなった部分、城門のほぼ正反対にあります。水際門からは湖岸に出ることができ、中世には城の重要な出入口でした。城で必要とされる物資のほとんどは船で運ばれ水際門の下で荷揚げされました。
尚、水際門の奥に見える石積みは馬小屋跡の石積みと考えられているようです。
鳩小屋
南郭の頂上部の東下斜面にある遠景の石積みは鳩小屋跡です。これは16世紀にスコットランドでよく見られた鳩小屋で、長く厳しい冬の間でさえも、城主の食卓に絶えず鳩の肉や卵を供給することを可能にしていたそうです。奥の塔は、鍛冶場の石積み跡です。
shell keep(天守)へ
南郭の頂上部へ登って行きます。現地購入誌には「天守」と訳されていますが、ちょっと違うような気が?? まあ、それでもそのまま使わせてもらうことにします。
shell keep(天守)
shell keep(天守)は城内で最も高い場所で、その頂上部を中心としてピクト人が強固な砦を築き、それは約1000年頃まであったようで、13世紀に築かれた最初の城も、この頂上部を中心にしていたと思われます。しかし、城の心臓部は、その後城門の北側の低地(外郭と内郭)に移され、それ以降、この南郭は役務用として使用されるようになったようです。尚、この頂上部の石積みは迷路のようになっていますが、この石積みについてはよく分かっていないそうです。
shell keep(天守)から外郭方面を望む
shell keep(天守)から望む外郭方面の光景もなかなか見応えがあります。左側が城門、その右奥にグラントタワー、タワーの手前の丘の上がChapel跡(礼拝堂跡)、右奥が大広間跡、右手前が水際門です。