丹波 八木城(南丹市八木町)

主郭北東部腰曲輪の石垣

丹波三大城郭の一つ、内藤ジョアンゆかりの城、明智光秀により落城

所在地

京都府南丹市八木町本郷
【アクセス】
JR山陰本線「八木駅」の南西約700m(春日神社北西)の「京都縦貫自動車道」下のトンネルをくぐってすぐ左手に登城口があります。トンネル入口が城門のようになっています。車は、登城口を通り過ぎ100mほど行った左側の空地の停めました。

所要時間

登城口から本丸まで25~30分、今回の見学時間は1時間40分でした。全ての曲輪を見て廻るのには3時間ほど掛かると思われます。

形状

山城(標高344m、比高約220m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀切、櫓台、井戸、内藤ジョアンゆかりの地の十字架碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2014/05/18

歴史等

築城年代は定かではないが、室町時代の15世紀前半には丹波守護代内藤備前入道が居城していたと思われる。
戦国時代、内藤国貞(備前守)が細川氏綱、三好長慶に味方して以降、八木城は幾度も危機にたったが、天文22年(1553)、丹波八上城の波多野秀忠らに攻められ遂に落城し、守護代内藤国貞は討ち死にしたが、その後、すぐに松永久秀の弟長頼(のちに内藤宗勝と称した)が八木城を奪回した。
長頼は丹波にて強大な勢力を誇ったが、丹波国人衆の反抗は止まず、さらには波多野氏や赤井(荻野)氏なども抵抗を続け、永禄8年(1565)荻野直正の居城・丹波黒井城を攻撃中に討死した。この長頼の子が*内藤如安(ジョアン)である。
その後、内藤如安が城主に復帰するが、天正元年(1573)織田信長に追放された足利義昭に味方し、明智光秀の丹波侵攻により落城し、丹波守護代内藤氏は滅亡した。
丹波国を平定した明智光秀は丹波亀山城を築城し、丹波の中心も亀山城に移っていくが、八木城亀山城の支城として改修された。
廃城は、天正10年(1582)、光秀が秀吉に敗れた「山崎の合戦」後のことと思われる。
『「現地説明板」、「日本城郭大系11」、「ウィキペディア・八木城(丹波国)・松永長頼」他参照』

【内藤ジョアン】
ジョアン内藤飛騨守忠俊は、八木城主内藤宗勝(松永長頼)の子で、八木城に生まれ、永禄8年(1565)、17歳の時に京都の南蛮寺において宣教師のルイス・フロイスから洗礼を受けた。
将軍足利義昭に仕え、織田信長との戦に際しては、頭に十字架とIHSの打物を施した兜を頂き、2千の将兵を率いて二条城に出陣した。また八木城落城後は将軍足利義昭と共に鞆ノ浦に隠棲した。
文禄の役(1592)に際して、小西行長の客将として講和使節の大任を命じられ、朝鮮を経て明国北京に赴き、講和を終結して文禄の役を終結せしめた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで行長が滅亡すると、ジョアンは同じくキリシタン武将として名高い高山右近とともに加賀の前田家に保護されたりしています。
慶長17年(1612)徳川家康によるキリシタン禁教令り禁教令が発布されると、ジョアンも改宗を迫られますが、あくまでも信仰を貫くことを決心し、慶長19年(1614)高山右近と共にルソンに追放されます。翌年、高山右近は死亡しますが、ジョアンはマニラ市サン・ミケルで、ますます信仰への道を究め、かたわら医学書、宗教書を翻訳した。
そして、寛永3年(1626)、その波瀾に満ちた生涯を終えます。70余歳。ジョアンの亡骸は、マニラ市郊外の高山右近の墓の側に埋葬されたと伝えられています。
(現地説明碑他より)

現況・登城記・感想等

八木城は、亀岡盆地北部、大堰川(桂川の上流)の右岸に位置し、京街道(山陰道)を望む口丹波随一の要害で、丹波国内では八上城黒井城と並んで三大城郭の一つといわれ、中世山城としては有数の規模を誇ります。
縄張は、山頂部の本丸を中心に、四方に延びる尾根の上に曲輪群が設けられた連郭式山城で、側面の傾斜は60度近くあろうかという急崖に守られている。
本丸周辺部には、石垣や土塁、虎口などの遺構が残り、各尾根には明瞭な堀切も確認できるが、あまりにも広すぎて、今回は本丸周辺と西尾根の一部の遺構を見て廻るだけとなりました。
尚、本丸跡から望む亀岡盆地の眺めは素晴らしいです。
(2014/05/18登城して)

ギャラリー

八木城縄張略図(現地本丸跡説明板より)
八木城縄張図

「ジョアン内藤飛騨守忠俊よかり之地」の十字架碑
JR山陰線「八木駅」の南西にある通称「城山」が八木城跡です。「城山」の北東麓に春日神社がありますが、その北東道端に「ジョアン内藤飛騨守ゆかり之地」と刻まれた十字架型の石碑が立ち、その脇には「ジョアン内藤ジョアン」についての説明碑があります。
05十字架

城門風のトンネル
春日神社北西の「京都縦貫自動車道」下のトンネルをくぐってすぐ左手に登城口があります。トンネル入口が城門のようになっており、その左手前に説明板が設置されています。尚、車は登城口を通り過ぎ100mほど行った左側の空地の停めました。
03城門トンネル

登城口
「城山」への道は、他にも数ルートありますが、「天神口」と呼ばれるこの登山口が大手道のようです。
07登城口

登城道
登城口から2合目あたりまでは、沢沿いの綺麗に整備された道を登って行きます。
09登城道

土塁?
登城口から少し歩くと、左手に土塁が見えて来ます。屋敷を囲む土塁なのか、後世のものなのかは分かりません。
11土塁

屋敷群
そして、塁段になった屋敷跡が現れます。段差は2mほどです。
13屋敷跡

山道
屋敷地を過ぎると、山道になります。
15登城道

尾根
登城口から15分ほど登ると、左上に尾根が見えてきます。
17尾根

対面所跡の標柱
左上に尾根を見ながら少し歩いて行くと「八木城対面所跡」に案内標柱が現れます。
18対面所案内碑

対面所
案内碑に従って左上の尾根上へ登って行くと、平坦地へ出ます。ここは、本丸から北東方向に張り出した尾根の先端に位置しており、その規模は幅15m×長さ40mほどで、西側を浅い空堀と低い土塁で区分されています。説明板等がないので分かりませんが、多分、大手道を監視する番所跡なのではないでしょうか?
19対面所

石垣
対面所から10分弱ほど登って行くと左上に石垣が現れます。かなり崩れていますが、下の方にも石垣が残っていることから類推すると、ちょっとした高石垣であったのかもしれません。
21石垣

石垣上部分
折角なので、上に見える石垣のところまで斜面を登って写真を撮りました。
22石垣

腰曲輪と崩れた石垣の石
石垣の左側へ廻っみたら、そこは本丸から北東へ延びる段曲輪でした。ほとんど未整備状態なので写真では分かりませんが、右側は切岸になっており、曲輪には崩れた石垣がゴロゴロ転がっていました。往時は、この周辺はかなりの部分が石垣で固められていたようです。
23段曲輪

本丸と二の丸方面の分岐点
元に道に下りて、再び山頂目指して登って行くと、すぐ本丸跡と内藤和泉曲輪・二の丸方面の分岐点へ出ます。すぎ左側には本丸跡、右方面へ向かうと馬屋跡を通って二の丸へ出ます。
25分岐点

本丸への坂道
分岐点のすぎ左側に本丸へ登る坂があります。写真の坂道のすぐ上が本丸跡です。
IMG_9286

本丸石垣
本丸の南西側面には石垣が確認できます。本丸に設置された説明板によると、「江戸時代に亀山藩が幕府に提出した絵図の模写によると、最高所の本丸は四方に野面積みの石組みが描かれている。」とあるので、本丸周囲全てを石垣で固めていたのではないでしょうか。
28本丸側面石垣

本丸虎口
本丸北西部の虎口から本丸へ入って行きます。 
29本丸虎口

本丸(北東側から撮影)
本丸の広さは東西20m×南北35mほどです。
31本丸

本丸から亀岡盆地を見下ろす
本丸跡から眼下を眺めると、眼下には亀岡盆地一帯が手に取るように見え、田園風景の中をうねるように桂川が流れ、八木町や亀岡市の町並みがあります。往時は、京から攻めてくる敵の軍勢が老ノ坂辺りから見えていたといいます。
尚、この本丸東側下には土塁は築かれていませんが、絶壁になっており、敵もこちらから登って来るのは無理でしょう。
32本丸からの眺望

本丸西側の土塁
本丸の西側には、高さ1~1.5mほどの土塁が築かれています。
33本丸土塁

本丸南東部の虎口
本丸南東部には、南東部にも虎口があり、崩れた石垣が確認できます。尚、この虎口ですが、南(写真奥)と東(写真左)へ向かう2つあるようですが、往時の形がどうなっていたのか疑問です。
35本丸南東虎口

東側の虎口
当写真は、上写真の左側の虎口ですが、その先は絶壁で下りて行けそうにありませんが、何のための凹みなんでしょう?
39本丸南東虎口

南側の虎口
南側の虎口は「金の間」への虎口です。但し、「金の間」は説明板によると「本丸の南西端に金の間と書かれた一段と高い部分が張り出しているが、これは天守閣の祖形と考えられる。」とあるので、虎口脇(写真左奥)が「金の間」でしょうか。ンーム分かりません(/。ヽ)。
41本丸南虎口

南側の虎口を見上げる(本丸南下から)
本丸南側の虎口への坂には、石段が一部残っています。上写真の説明で天守閣の祖形とかもとしれないという「金の間」は写真右上です。
43本丸南虎口

金の間?
一方、縄張図の位置からすると「金の間」は、本丸の南側にあるので、この本丸下の曲輪跡が「金の間」ということになるのですが・・・? しかし、「一段高い部分が張り出している」とは言えず、また、どう見ても天守閣の祖形とは思えません。
尚、縄張図によると、この先にも曲輪跡(内藤土佐)があるようですが、あまりの急崖で戻ることにしました(/。ヽ)。 
45金の間

本丸北東部の腰曲輪
本丸北東下には腰曲輪があります。腰曲輪は、北東に延びる尾根上に塁段になっているようです。
46本丸腰曲輪

腰曲輪から本丸切岸を
腰曲輪へ下りて行って本丸を撮りました。本丸の切岸には埋まってしまっていますが、加工された石が少し確認できます。恐らく、往時は石垣で固められていたことでしょう。
IMG_9323

本丸北西側面(虎口の北側)の石垣
本丸の北西側面には石垣が残っています。
47本丸北東石垣

馬屋跡
本丸周囲を一通り見て廻ってから、西尾根へ向かいます。本丸の西側下にある馬屋跡を通って、内藤和泉曲輪と二の丸跡へ向かいます。馬屋跡は幅20mほどで、途中から登り坂になっており、2段の段曲輪のようになっています。
51馬屋

土塁
坂を登った辺りは、左側に土塁が築かれています。
53土塁

西尾根の堀切①
馬屋跡から内藤和泉曲輪・二の丸へ向かうと見応えのある堀切へ出ます。馬屋側は高さ5~6mほどの切岸となり、一方、内藤和泉曲輪側は高さ3mですが巨岩が荒々しさを感じさせます。
55堀切

西尾根の堀切②
見事な堀切なので、反対側からも撮りました。この堀切が、当城跡の一番の見どころでしょうか。
59堀切

西尾根の堀切③
あまりにもかっこいいので、内藤和泉曲輪側からもう一枚(笑)。
60堀切

内藤和泉曲輪と二の丸
写真左上が内藤和泉曲輪で右下の平坦地をすぎた辺りに二の丸があります。この両曲輪を見て戻ることにしました。
61二の丸

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コメント

GGカメラ(2014/09/10)

私も好きで、色々な城に行きましたが、ここまで専門家の考察を入れた案内は初めて見ました。今迄、土塁を見ても大して興味も持たず、こんなところを掘るのは大変だったろうな、とか思うばかりで、カメラを向けることもありませんでした、これからは、見栄えのする城ばかりでなく、廃城も視野に入れて、見ていきたいと思います。ただ、崩れた石垣や土塁を見ても、それを築いた城主や駆り出された土工の無念さが分かるだけに、名のある城以外は雑草や木々が生い茂り無残に崩れているのをみると、残念でなりません。

タクジロー(2014/09/10)

GGカメラ様
過分なお褒めの言葉を戴き恐縮です。
私は、とても専門家とかいえませんが、これからも好きな城めぐりをして、サイトに載せていきたいと思っています。
今後とも、宜しくお願い致します。

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