黒井城本城部西側面の切岸と石垣
赤井(荻野)氏により大改修された要害堅固な巨大城塞、明智光秀により落城
別名
保筑城、保月城
所在地
兵庫県丹波市春日町黒井(黒井小学校の裏山)
黒井小学校:春日町黒井2205、電話0795-74-0035
所要時間
登城口にある駐車場から本城部の東曲輪跡まで30分強。今回の見学時間は1時間20分。
形状
山城(標高356m、比高差約220m)
現状・遺構等
現状:山林【国指定史跡】
遺構等:曲輪、石垣、土塁、櫓台、空堀、堀切、石碑、説明板
満足度
★★★★★
訪城日
2008/07/06
歴史等
黒井城は、南北朝時代の建武2年(1335)春日部荘を領した赤松貞範(則村の次男)が、はじめて山頂に城を築いたことからその歴史が始まる。
その後、約200年間数代の城主を経て、戦国動乱最中の天文23年(1554)、城主の荻野秋清を赤井悪右衛門直正が刺殺して、城主となり、荻野姓を名乗った。直正の勢威の拡大とともに、全面的に大改修の手を加えたのが現在の黒井城跡である。
山頂の本城部分には、荒々しい野面積みの石垣を積み上げ、これを囲んで中腹には三段曲輪・太鼓の段・石踏の段・西の丸・東出丸などの曲輪を配して防禦を固めている。
さらに枢要な尾筋には千丈寺・龍が鼻・的場・百間馬場などの砦跡があり、また山中のいたる所に曲輪跡・土塁・堀切などの防禦施設が埋もれていて、周囲約10kmにおよぶ猪ノ口山系全体が巨大な城塞となっている。
天正3年(1575)明智光秀が攻め込んできたが、直正は奮戦して撃退した。しかし、天正7年(1579)8月、さしも堅固を誇った黒井城も、丹波平定を急ぐ明智光秀の大軍の前に落城した。
その後、光秀の家臣・斉藤利三が入城し、豊臣期には堀尾吉晴が入城した。
天正12年(1584)頃に一時、荻野氏の残党が籠城し、家の復活を画策したが失敗し、この直後に廃城となった。
『「現地説明板」、「別冊歴史読本・激闘!戦国武将330傑(新人物往来社刊)」、「織豊系城郭見どころ事典・織豊期城郭研究会編(新人物往来社刊)」他より』
現況・登城記・感想等
黒井小学校の背後に聳える猪ノ口山(興禅寺の裏山でもある)が黒井城址である。登城口に駐車場があり、城址碑とほとんど消えかけた縄張略図の付いた説明板が設置されている。
登り始めるとすぐ、山への入口に金網の門扉が・・・。野生動物の防護柵である。
そこから、ひたすら登ること20分ほどで、「石踏の段跡」に出る。ここは5段ほどの段曲輪のようになっており、最上段に楼門が建っている。多くの方からの寄進により、昭和34年に建てられたものらしいが、説明板の字が薄くて読めない。その奥に、赤井氏の招魂碑もたっている。
そこからは、10分ほどで頂上付近へと出る。景色が一変し、空が広くなる。ここが東曲輪である。正面には三の丸の石垣がしっかりと残っていて、嬉しくなると同時にほっとする。
三の丸へ登ると、今度は二の丸の石垣が見える。二の丸下の帯曲輪からは、本丸にかけて石垣がかなり良好に残っているのが見える。
二の丸に登ると、本丸の石垣が見える。この広々とした光景も素晴らしい。本丸と二の丸間には浅くなってしまってはいるが、堀切が切られている。
本丸には「保月城趾」の石碑がたっている。また、周りを見渡すと360度のパノラマが楽しめる。以前登城して感激した竹田城址から見下ろす風景を思い出した。石垣に関しては、さすがに竹田城には及ばないが、眺望は決して負けていない。実に素晴らしい!!残念ながら、薄曇でもうひとつはっきりとしないとは言え、梅雨真っ只中で、これだけの眺望だ。ラッキー!!
本丸の奥には西曲輪がある。東曲輪からこの西曲輪までが、頂上部に連郭式に続く曲輪群跡であり、黒井城址の最大の見どころであろう。
しかし、黒井城はこれだけではない。他にも多くの砦や曲輪を持つ巨大城塞群であるが、34度という蒸し暑いさなかである。また、今日は、他に登城したい山城もあるし、とても廻る気力は残っていなかった。
(2008/07/06登城して)
ギャララー
黒井城全体図(現地説明板より)
黒井城は、周囲約10kmにおよぶ猪ノ口山系全体が巨大な城塞となっていますが、今回は、石踏の段を通り、略図の中の「本城部分」のみの登城でした。
黒井城址遠景
黒井小学校横の道から撮影したものです。中央奥の山が黒井城本城部分で、この道を真っ直ぐ進むと登城口の駐車場へと出ます。
登城口駐車場
登城口に駐車場(石碑の後ろ)があり、縄張略図の付いた説明板が設置されていました。また、保月城址登山口と書かれた白い大きな標柱がたっています。写真右の方にも急な石段があり、そこからも登城できるようですが、標柱のところの道を真っ直ぐ登って行きました。
野生動物の防護柵
登り始めるとすぐ、山への入口に金網の門扉があり、そこに猪の絵が描かれています。野生動物の防護柵です。どうも、こういうのは、今にも出てきそうで苦手です( ̄ー ̄;。
石踏の段①
ひたすら登ること20分ほどで、「石踏の段跡」に出ます。ここは5段ほどの段曲輪のようになっており、最上段に楼門が建っています。
石踏の段②
楼門は、多くの方からの寄進により、昭和34年に建てられたものらしいですが、そこに架かっていた説明板の字が薄くて読めませんでした。その奥には、赤井氏の招魂碑も立っています。
赤松氏の招魂碑
【本城部】
本城部の航空写真(登城口駐車場の説明板より)
東曲輪
石踏の段から10分ほどで頂上付近へと出ます。本城部の東端に構えていた東曲輪跡ですが、景色が一変し空が広くなります。正面には三の丸の石垣がしっかりと残っていて、嬉しくなると同時にほっとします。
三の丸
三の丸へ登ると、今度は二の丸の仕切り土塁石垣が見えてきます。三の丸は二段からなっていたようです。
二の丸から本丸にかけての西側の石垣
二の丸
二の丸に登ると、本丸の石垣が見えてきます。二の丸は本城部では最も広く、この広々とした光景がいいですね。勿論、眼下に広がる景色も素晴らしいです。
本丸・二の丸間の堀切
本丸と二の丸の間には浅くなってしまってはいますが、堀切で断ち切られています。
本丸
本丸(奥)北西隅の方には保月城趾(写真左奥)の石碑がたっています。
本丸跡に立つ城址碑
本丸西側面の石垣と虎口
本丸西側の虎口
本丸西側の虎口には石段が良好に残っています。
本丸からの眺望
本丸からは、360度のパノラマが楽しめる。以前登城して感激した竹田城址から見下ろす風景を思い出しました。石垣に関しては、さすがに竹田城には及ばないが、眺望は決して負けていません。残念ながら、薄曇で、もうひとつはっきりとしないとは言え、梅雨真っ只中で、これだけの眺望です。「ラッキー!!」と思うしかないでしょうね。
西曲輪(本丸上から撮影)
本丸の奥下には西曲輪があります。東曲輪からこの西曲輪までが、頂上部に連郭式に続く曲輪群(本城)跡です。
西曲輪から本丸を見上げる
本城部の西側面(西曲輪から撮影)
本丸も含めて西側面には石垣がよく残っています。本城部下には細長い腰曲輪(帯曲輪というべきかも)が備えられ、その下は急崖になっています。敵もここから登って来るのは無理でしょう。
本城部の東側面
東側面には石垣が見当たりませんでした。草に覆われて隠れてしまっているのか、崩れ落ちてしまったのでしょうか?或いは、元々無かったのでしょうか?
但し、この東側面も本城部下には腰曲輪が設けられ、その下は急崖になっており、なかなか堅固です。