シュヴァルツェンベルク宮殿(プラハ)

フラチャニ広場からシュヴァルツェンベルク宮殿を

スグラフィット技法で切石積みの壁を模倣した優美な宮殿

チェコ語名

schwarzenberský palác

訪城日

2012/05/31

歴史・現況・感想等

プラハ城正門(巨人の門)前のフラチャニ広場の辺りは、かつて城の奴隷たちの集落があったところで、1320年頃に城の司令官ヒネク・ベルカが城壁を造らせたことで行政区が形成された。
現在のような立派な宮殿が建ち並ぶようになったのは、1420年のフス戦争と1541年の大火災で、市庁舎など僅かな建物を除いて、ほとんどが焼失してしまい、町が新たに再建されてからである。
フラチャニ広場は、中央にペスト記念柱が立ち、それを囲むように四方に屋敷が建つ中世の町の造りを残し、広場の両側には大司教宮殿・シュテルンベルク宮殿とシュヴァルツェンベルク宮殿が向かい合い、西端にはプラハ城と相対するようにトスカナ宮殿が建っている。
その中で、独特の模様の壁が一際目立つ建物が、シュヴァルツェンベルク宮殿である。スグラフィット技法(掻き絵手法)による切石積みの壁を模倣した建物は、ユニークなだけでなく優美で、プラハでも最も美しい宮殿の一つに数えられているそうだ。スグラフィット技法(掻き絵手法)は、16世紀半ばにボヘミア全土に広がったイタリアからもたらされた装飾技術で一種のだまし絵のような効果がある。
シュヴァルツェンベルク宮殿は、ロブコヴィッツ家からイタリア人建築家A.ガッリが注文を請け、1545年から1576年までかけて完成させたという。
シュワルツェンベルク家は、ヨーロッパの貴族で、チェコでは南ボヘミア地方のチェスキー・クルムロフ城に居住していた貴族であり、チェスキー・クルムロフ城もだまし絵で有名だ。
宮殿は、以前は軍事史博物館として使用されていたそうだが、今は国立美術館の一部になっている。入館したかったが、パック旅行の身の上で時間もなく、中庭をちょっと覗くのが関の山でした(/。ヽ)。
(2012/05/31訪れて)
『「図説プラハ・片野優、須貝典子著(河出書房新社刊)」、「現地購入誌・プラハ」他参照』

ギャラリー

プラハ城正門前からフラチャニ広場を
プラハ城正門 前のフラチャニ広場は、中央のペスト記念柱を取り囲むように、立派な宮殿が建ち並ぶ。右手前が大司教宮殿、左側3つ目がシュヴァルツェンベルク宮殿、正面奥がトスカノ宮殿。左手前には、チェコスロヴァキア建国の父初代大統領マサリクの像も立つ。
フラチャニ広場

フラチャニ広場からシュヴァルツェンベルク宮殿を
シュヴァルツェンベルク宮殿は、フラチャニ広場に建ち並ぶ多くの宮殿の中でも、独特の模様の壁が一際目立つ。ユニークなだけでなく、優美で、私はすっかり気に入った。
シュヴァルツェンベルク宮殿

宮殿とガス灯
宮殿の前にはシャンデリアのようなガス灯が立っている。このガス灯は1860年代のものだそうだ。
シュヴァルツェンベルク宮殿とガス灯

宮殿の中庭
以前は軍事史博物館として使用されていたそうだが、今は国立美術館の一部になっている。中庭をちょっと覗いてみると、オープンカフェがあった。入館したかったが、パック旅行の身の上で時間がなくて・・・(/。ヽ)。
シュヴァルツェンベルク宮殿中庭

初代チェコスロヴァキア大統領マサリクの像とペスト記念柱
チェコスロヴァキア建国の父といわれ、初代大統領となったマサリクは、労働者階級に生まれ、のちに社会学者・哲学者としても活躍した。オーストリア・ハンガリー帝国からの独立運動をしたため、第1次世界大戦時には国外に逃亡し、海外から独立を訴えた。
マサリク像 ペスト記念柱

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