ドゥブロヴニク

東の山腹を通る道路から望むドゥブロヴニク旧市街全景

「アドリア海の真珠」と謳われる中世の城塞都市

クロアチア語名

Dubrovnik

所在地

クロアチア・ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡ドゥブロヴニク市

形状

城塞都市

歴史等

ドゥブロヴニクは歴史的に海洋貿易によって栄えた都市で、中世のラグーサ共和国はアマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどと共に5つの海洋共和国に数えられ、巧みな外交術と豊富な富に支えられ15世紀から16世紀にかけてはとくに特筆するほど発展している。
ドゥブロヴニクの起源については、ほとんど情報がなく定かではないが、7世紀初頭に、アヴァール人とスラヴ人の混成集団がバルカン半島に侵入し、古代ギリシャ人ないしイリリア人が造り、ローマ人の手に渡った都市エピダウロス(現ツァヴタット町、ドゥブロヴニクの南方約25km)の一部の人(多くがローマ人の出自)が、本土から浅い水路で隔てられた急峻な岩塊に避難してきたのが、「ラグシウム(現ドゥブロヴニク)」と呼ばれる町の始まりであるという。しかし、最近のドゥブロヴニク市内の考古学的調査と発掘により、この岩塊には、その遥か以前に人が住んでいたことが分かった。
ラグシウムに定住した住民(ラグーザ人)は、岩場を要塞化を始めた。そして、9世紀中頃までには全くの城塞都市となり、南アドリア海岸では、かなり重要な地位を得ていた。
当初は、漁業や周辺地域との交易に従事していたが、12世紀頃から、イタリア諸都市と協定を結び、アドリア海の良港という地の利を生かして、バルカンとイタリアとの交易で栄えていった。また、12世紀後半にはスラブ語系のドゥブロヴニク(イタリア名ラグーザ)という呼称が用いられるようになった。
14世紀には、後背地のセルビアやボスニアの高山を多数所有するようになり、さらに繁栄して、都市国家としての様相を整えていき、要塞や塔などの防御施設や城壁も一層強化されていった。
12世紀のビザンツ帝国に始まり、13~14世紀にヴェネツィア、14~16世紀にハンガリーの庇護を受け、アドリア海から地中海や黒海、さらには大西洋沿岸にまで交易の範囲を拡大していった。
ヴェネツィアの庇護のもとで独立が認められていたドゥブロヴニクであるが、14世紀末、バルカン半島に進出してきたオスマン帝国とも粘り強い交渉の末、1458年に協定が結ばれ、一定の貢納額を治めることで保護を受け、実質的独立を保った。
しかし、1539年にローマ教皇・ヴェネツィア・スペインが、オスマン帝国と第1回神聖同盟を組織したことに危機感を持ち、レヴェリン要塞の建造を始め、16世紀中頃には全要塞がほぼ完成した。
そして、経済も発展し隆盛を極めたが、1667年の大地震(ドゥブロヴニク大地震)では、中央部に建てられた貴族の家の大半は破壊されてしまったが、地震後に大急ぎで、しかし調和良く再建され、今日ある市街となった。
1806年には、フランスのナポレオンの軍隊に包囲され、1ヶ月の包囲に降伏しフランスの支配下におかれた。
しかし、その数年後の1814年1月29日、オーストリア=ハンガリー帝国が街を占領しウィーン会議によって、ハプスブルク領ダルマチア王国 の一部とされた。
第一次世界大戦後の1918年には、オーストリア=ハンガリー帝国が新たに後のユーゴスラビア王国となるスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の都市となり、都市の名称もラグーサから公式に現在のドゥブロヴニクと変えられた。
第二次世界大戦時にはナチスの傀儡国家であったクロアチア独立国の一部であったが、大戦中の1944年10月にチトー率いるパルチザンがドゥブロヴニクに入りその結果、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部となった。
そして、1991年にユーゴスラビアから独立する際、ユーゴスラビア人民軍(JNA)により攻撃され、ドゥブロヴニク包囲が7ヶ月間続いた。
紛争終結後は砲撃による旧市街の損害の修復が進み、元来の姿に戻された。
『「中世都市ドゥブロヴニク・B.クレキッチ著(彩流社刊)」、「バルカンの歴史(河出書房新社刊)」、「ウィキペディア・ドゥブロヴニク」他参照』

現況・登城記・感想等

ドゥブロヴニクへは、大いに期待をして訪れたが、その期待をさらに超える素晴らしい城塞都市でした。
ドゥブロヴニクは、美しいアドリア海岸の中でも、傑出した人気の観光地で、その美しい町並みから「アドリア海の真珠」とも謳われるらしいが、そんな賛辞くらいでは、その素晴らしさを言い表せないほどで、感動ものでした。
勿論、赤い屋根が建ち並ぶ街の光景は素晴らしいが、それ以上に、街を囲む「高くて分厚い城壁」と「大規模なそれぞれの要塞」は、想像の遥か上をいくもので圧倒された。
街の中を案内されながら廻ったあと、1時間半ほどの自由時間が与えられたので、城壁の上をほぼ1周することができたが、城壁の上から眺める、街並み・海・要塞・城壁などの光景は、どの場所からも眺めても素晴らしいものでした。
あるブログによると、スロベニアからきた旅人が、「ヨーロッパの古都で君がまず訪れなければならない街がふたつある。ひとつがドブロヴニク、もうひとつがチェスキー・クルムロフだ」というくだりがあったが、確かに、チェスキー・クルムロフも素晴らしかったが、ドゥブロヴニクは、さらにその上だと思います。
できることなら、丸一日この街で過ごしたかったですね(*^_^*)。
(2013/04/21訪れて)

現況・登城記・感想等

ドゥブロヴニク旧市街の地図(パンフより)
1.ピレ門、2.城壁の遊歩道、3.聖セイジャー教会、4.オノフリオの大噴水、5.フランシスコ会修道院、6.プラツァ通り、7.ルジャ広場、8.スポンザ宮殿、9.時計付き鐘楼、10.オノフリオの小噴水、11.聖ヴラホ教会、12.市民ホール、13.総督邸、14.旧港、15.聖母被昇天大聖堂、16.グンドゥリチェフ広場(青空市場)、17.聖キャサリン修道院、18.民俗博物館、19.マリン・ドルジッチの家、20.戦争展示館、21.ユダヤ教博物館、22.聖ニコル教会、23.聖セバスチャン教会、24.ロザリオの教会と協会、25.ドミニコ会修道院、26.正面城壁、27.聖イヴァン要塞、28.海洋博物館、29.水族館、30.ボカール要塞、31.ミンチェタ要塞、32.市内へ、33.ロヴリイェナツ要塞、34.元聖クラレ協会、35.シグラタ協会、36.プリジェコ通り、37.セルビア正教会とイコン博物館、38.モスク、39.レヴェリン要塞、40.プロチェ門、41.検閲所?(Lazareti)、42.聖ルカ要塞、43.ブジャ門、44.聖イヴァナチオ協会、45.ドミノ教会、46.自然史博物館
00ドゥブロヴニク

ドゥブロヴニク全景
ドゥブロヴニクは、美しいアドリア海岸の中でも、傑出した人気の観光地で、その美しい町並みから「アドリア海の真珠」とも謳われる。時間さえ許せば、背後にそびえるスルジ山から見下ろすのが良いが、こちとらパック旅行の身の上で、たとえロープウェイを使っても、そんなところまで登っていたら、僅かな自由時間がなくなり、城壁の上を廻る時間がなくなってしまうので断念した。ところがラッキーなことに、ドゥブロヴニク観光後、コトルへ向かう途中の道(ドゥブロヴニク東の山腹)から遠景を眺めることができた。本当に綺麗です。
ドゥブロヴニク全景

ピレ門とその前の空堀に掛かる橋
ピレ門は、旧市街西側の門で、バスの客はここから入城することになる。門の前の空堀は、なかなか大規模で見応えがある。
03ピレ門前

ピレ門
門には、ドブロヴニクの守護聖人「聖ヴラホの像」が。
05ピレ門

跳ね橋
ピレ門前の空堀に架かる橋は、一部(ピレ門側)が跳ね橋になっている。
07ピレ門跳ね橋

城壁の遊歩道
ピレ門をくぐり入城すると、高い城壁に挟まれた遊歩道が。
09城壁遊歩道

砲弾が
城壁の一部には牢獄のような穴部屋があり、石の砲弾が置かれていた。その奥に置かれた四角い石の正体は、狭間としても活用されたと思われる壁穴のようです。
11弾丸

【旧市街散策】
オノフリオの大噴水
1438年に造られた噴水で、水が出てくる部分に16の顔?のレリーフがある多角形の噴水で、美味しい天然の湧水を味わうことができるのだそうです。
13大噴水

プラツァ通り
オノフリオの大噴水横から、旧市街の中心部「ルジャ広場」まで続く200m余りのメインストリートで、両側には、銀行・ショップ・カフェなどが並び、そこから路地が網の目のように延びている。当写真は、ルジャ広場側から撮ったもので、奥に見える塔は、クロアチア最古(ヨーロッパでも3番目に古い)の薬局があることで有名なフランシスコ会修道院の鐘楼です。
26プラツァ通り

路地・路地・路地・・・
ヨーロッパの中世の都市は、どこもそうだが、網の目のように延びる路地が多く残っている。ドゥブロヴニクも同様で、プラツァ通りから路地が網の目のように延びている。こういった路地を歩いて廻るのもタイムスリップしたみたいで楽しいものだ。

路地1 路地2

路地3 路地4

グンドゥリチェフ広場(青空市場)
これまた、ヨーロッパによくある街の中の広場で開かれる青空市場です。こういった市場を見て廻るのも楽しいですね。
21青空市場

ルジャ広場(㊧スポンザ宮殿と時計付き鐘楼、㊨オルランドの柱と背後に聖ヴラホ教会)
ルジャ広場はプラツァ通りの東端にある広場で、多くの人で賑わっています。周囲はスポンザ宮殿、聖ヴラホ教会などに囲まれています。スポンザ宮殿は、1667年の大地震でも被害を受けなかった数少ない建築物の一つで、1516年に建てられ、当初はドゥブロヴニクを出入りする物資や財の管理所であった。17世紀になり税関の役割が減ると、学者や知識人の文化サロンへと変わった。 また、広場の中央には、商取引の際の長さの基準になったという「オルランドの柱(像)」が立っているが、地味なので、つい見逃してしまいそうになる。
25ルジャ広場1 25ルジャ広場2

聖母被昇天大聖堂
もともとは、1192年に英国のリチャード王が創建したと伝わるが、17世紀にバロック様式で再建された。
22聖母被昇天大聖堂

聖ヴラホ教会
聖ヴラホは、ドゥブロヴニクの守護聖人で、現在の教会は18世紀に建て直されたバロック様式のものである。ファサードの上には聖ヴラホの像が立っている。
24聖ヴラホ教会

総督邸
ラグーサ共和国の総督の住居であったと同時に、大評議会、小評議会、元老院など共和国の行政を司る行政機関が集まっていた。ラグーサ共和国の総督は、任期が僅か1ヶ月であったという。15世紀の初めに建てられたが、完成から30年後に火薬の爆発によって大被害を受け補修作業がなされた。その後、1667年の大地震後の修復された。現在は、文化歴史博物館として使われている。
23総督邸

【旧港にて】
かつてはドブロブニクの玄関口だった旧港ですが、現在は近郊の島へ向かうエクスカーション用の船の発着地となっています。
聖イヴァン要塞を
31聖イヴァン要塞1

聖ルカ要塞(左)とレヴェリン要塞(右奥)
32聖ルカ要塞とレヴェリン要塞

聖ルカ要塞
35聖ルカ要塞

【城壁散策】
旧市街を囲む城壁は、全長1940m、高さは最高で25mに達する。1667年の大地震の際にも、城壁だけはほとんど被害がなかったというだけあって、見るからに頑丈そうです。城壁の上を1周することができます。
チケット売り場
城壁の上を散策するには、城内(旧市街)への入城とは別に料金が必要です。城壁への登り口は、ピレ門脇、聖イヴァン要塞、聖ルカ要塞の3ヶ所あるが、我々は聖ルカ要塞から登りました。
城壁散策チケット売り場

城壁へと
いよいよ、今回の旅行のメインイベント「ドゥブロヴニクの城壁周遊」です。胸がワクワクします(*^_^*)。それにしても、高い城壁です。
城壁上へ

レヴェリン要塞を
城壁上の遊歩道を登り、北東隅の塔から北東にどっしりし構えたレヴェリン要塞が見えます。レヴェリン要塞は、1539年から建造をはじめ16世紀中頃に完成し、これをもって現在見る全要塞の完成がほぼ終わったようです。
39レヴェリン要塞

旧港と聖イヴァン要塞
同じ場所から南東方面には港が見え、その向こうに聖イヴァン要塞が見える。さらに、その向こうには、ナポレオン軍の築いた要塞やベネディクト派修道院が建つというロクルム島が見える。またその左には豪華大型客船が。
41聖イヴァン要塞2

北面城壁を行く
北面城壁の上を西進すると、何本かの塔が見え、その奥に立派な要塞(ミンチェタ要塞)が見える。
45城壁とミンチェタ要塞

北面城壁とミンチェタ要塞
城壁の外側へ体をのり出して西の方を見ると、城壁、さらにはミンチェタ要塞の凄さがわかる。こちらは、山側で特に防御が大事ですが、まさに万全の構えといえるでしょう。それにしても、かっこいい(*^_^*)。
46ミンチェタ要塞他1

旧市街(西部分)の眺望、右奥にロヴリイェナツ要塞が
さらに西進し、左前方(南西方面)を・・・。赤い屋根が密集した旧市街は、これぞテレビなどでよく見るドゥブロヴニクです。その向こう(写真右奥)にはロヴリイェナツ要塞が見えてきます。
47眺望1

旧市街(東部分)の眺望
やや逆光気味でしたが、やっぱり綺麗です。
48眺望2

ロヴリイェナツ要塞
北面城壁の上をさらに西進すると、ロヴリイェナツ要塞と西面の城壁がよく見えてくる。この景色も素晴らしいです。
49ロヴリイェナツ要塞遠景

ミンチェタ要塞へ
そして、いよいよミンチェタ要塞へ向かい、塔の最上部へ登って行きます。
IMG_1029

ミンチェタ要塞の上にて
IMG_1033

ミンチェタ要塞から南方面を
ミンチェタ要塞の上から、このあと歩いて行く西面の城壁と、右奥にロヴリイェナツ要塞を見下ろします。城壁の一番手前がピレ門で、一番奥がボカール要塞です。
52ミンチェタ要塞からの眺望

西面城壁からミンチェタ要塞を振り返る
53ミンチェタ要塞3

ピレ門の上からフランシスコ会修道院とプラツァ通りを見下ろす
写真左がフランシスコ会修道院、通りの突き当りがルジャ広場の時計台。
プラツァ通り

ピレ門の上からオノフリオの大噴水とプラツァ通りを見下ろす
DSC05450

ボカール要塞とその向こうにロヴリエナツ要塞
残念ながら、ボカール要塞は進入禁止になってます。
54ボカール要塞

ロヴリイェナツ要塞
いよいよ、ロヴリイェナツ要塞が、すぐ近くに・・・。海が狭くなった対岸の岩山の上にあり、ボカール要塞と一対で防御体制を構築していたのがよく分かります。ロヴリイェナツ要塞の写真がやたらと多くてスミマセン( ̄ー ̄;。何しろ、ドゥブロヴニクの要塞の中でも、一番見てみたかった要塞なもので・・・。
55ロヴリイェナツ要塞1

56ロヴリイェナツ要塞

ボカール要塞から北の光景を望む
時間さえ許せば、後方に見えるスルジ山に登って、ドゥブロヴニクの景色を見たかったのですが・・・。
57眺望4

南面城壁の上を進む
ボカール要塞から南面の城壁の上を進む。この辺りの崖は、特に高くなっており、結構な坂になっています。
58城壁を

南面城壁の塔からロヴリイェナツ要塞を
またまた、ロヴリイェナツ要塞ですが・・・(汗)。でも、やっぱり、かっこいいと共に、背後の赤い屋根の家並みと相俟った景色は素晴らしいですよね。
59ロヴリイェナツ要塞2

南面城壁と塔
南面城壁にも多くの塔がありますが、名前が分かりませんが、地形に沿って築かれた城壁と所々に築かれた塔は、なかなか絵になります。
61城壁を

62城壁上

【レヴェリン要塞へ】
我々パック旅行の面々は、城壁散策を終えて、レヴェリン要塞の東の方にある「KOMARDA」へ昼食に行くため、幸いなことに、レヴェリン要塞のすぐ下を通って行きました。
旧市街とレヴェリン要塞を繋ぐ橋と門
82レヴェリン要塞へ

橋の上から旧港方面を望む
この橋の上から見る旧港方面の景色もなかなかのものです。対岸には聖イヴァン要塞が見え、こちら側の聖ルカ要塞(写真右側)とレヴェリン要塞(左側)の3つの要塞が港を取り囲んで防御していたのがよく分かります。
84レヴェリン要塞への橋から

プロチェ門
レヴェリン要塞へ入城するには橋を渡り、プロチェ門を通ります。
86門

跳ね橋
プロチェ門の手前も、ピレ門などと同様、跳ね橋になっている。
87跳ね橋

昼食のレストラン「KOMARDA」から港を
昼食の中味は兎も角、レストラン「KOMARDA」のテラスから眺めるドゥブロヴニクの港の景色は最高でした(笑)。
こちらから見ると、聖イヴァン要塞(写真左)が旧市街側から見るのと違い、どっしりとしているのが分かります。

ドゥブロヴニク旧港

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