紫禁城(北京市)

故宮の正門である午門(ごもん)

明・清帝国の権力の象徴の大宮殿

別名

故宮、故宮博物院

所在地

北京市東城区景山前街4号

訪城日

2009/09/15

歴史等

北京は、春秋戦国時代(BC770~BC221)には燕の首都で「薊(けい)」と称されたが、 常に北方の匈奴などの遊牧民族の侵入による被害を受ける辺境であった。
秦(BC221~BC206)や漢代(BC202~AD220)には「北平(ほくへい)」と称され、満州開発が進み、 さらには高句麗など周辺国の勢力が強大となると、戦略上、また交易の重要な拠点として重視されるようになった。
唐末五代(907~960)の騒乱期に、内モンゴルから南下してきた遼朝は「燕京」と命名し、副都を置いた。
その後、女真族の金朝(1115~1234)が、1125年に遼、1127年に北宗を滅ぼし、華北を支配下に置くと、1153年に「燕京」 に遷都し「中都」を造営し、1214年まで首都とした。
更に、チンギス・ハンのモンゴル帝国を受けて、その孫フビライが元を建国し「大都」を造営し首都とした。
朱元璋が元を北方に駆逐し明朝(1368~1644)が成立すると、名称を「北平」に戻し、首都は南京に定められたが、 第3代皇帝永楽帝は1406年から元が造ったものを改築し紫禁城を造営し、1421年に北京遷都を実行し、地名を「北京」と改めた。これが、 現在の北京市街の土台となっている。
1644年の李自成の乱で明代の紫禁城は焼失した。しかし、女真族ヌルハチが東北地方に建てた後金を全身とする清朝(1644~1912) が、李自成の立てた順朝を滅ぼし北京に入城し、再建された。現存の故宮の大部分が、この頃から清朝前期にかけて修復、再建されたものである。 そして、その後、紫禁城は清朝の皇宮として皇帝とその一族が居住するとともに政治の舞台となった。
1912年に清朝は滅亡したが、中華民国臨時政府の「優待条件」として末代皇帝溥儀とその一族は、紫禁城の内廷での居住を許された。
しかし1924年10月の馮玉祥による北京政変の際、11月5日を以って溥儀を初めとする皇族への紫禁城退去が通告され、 その後は故宮と呼ばれルーヴル美術館などの例に倣い1925年10月10日に故宮博物院として組織された。
『「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)」、「るるぶ情報版中国(JTBパブリッシング刊)」他参照』

現況・登城記・感想等

さすが、世界最大の宮殿遺構である。とにかく広い!
しかも広いばかりではない。大小の建物がやたらと多く、中でも皇帝や皇后、皇子たちの住居であったという東西サイドは複雑に入り組んでおり、 まさに迷路である。
それもそのはず、敷地面積72万5千㎡(南北961m、東西753m)、建築面積16.3万㎡あり、 部屋数にいたっては8704室あるそうだ。全て見て廻ったら1週間掛かるとの中国人ガイド郁さんの話も決して大袈裟ではないようだ。
見学していて、最初のうちは、廻っているそれぞれの建物や門の全てを写真に撮っていたが、その内に面倒になり大幅に省略した。
とは言え、太和殿や保和殿等をはじめとする大規模な建物群や、太和門や神武門をはじめとする多くの立派な門は見応え満点であった。
そして、これまた世界一の広さを誇るという天安門広場にも圧倒される。ただ、天安門に飾られた毛沢東の大きな肖像画を見たりすると、 1976年と1989年の天安門事件が、どうしても思い出されるのは・・・?
尚、中国の多くの都市がそうであったように、北京も城郭都市で、周囲を城壁がめぐっていた。その総延長距離は何と20kmもあったというが、 今では跡形もなく広い道路になってしまっている。これも時代の流れでしょうか!?
(2009/09/15登城して)

ギャラリー

天安門
紫禁城の正門にあたる。1949年、毛沢東はこの天安門楼上から天安門広場を見下ろし、 中華人民共和国の成立を宣言した。

端門
天安門から入って行くと、端門へ出る。

午門(ごもん)
故宮の正門。南(子午)の方角にあることから午門と命名された。故宮最大の門で、 5つの崇楼が建つことから五鳳楼とも呼ばれる。中央の大きな門は皇帝専用で、皇帝以外では皇后と科挙の殿試(官吏登用試験の最終試験) の合格者のみが通行を許されたという。つい最近、大改修を終えて、鮮やかな赤い門が甦った。TOP写真も午門の全体像であるが、 あまりの大きさに全部は入りきらなかった。

太和門
午門をくぐると太和門へ出る。正面が太和門、左が貞慶門、右が昭徳門。

太和殿前の広場の周囲を囲む建物と門
太和門を抜けると、スゴク広~い太和殿前庭へ出る。太和殿前の広場は、周囲を多くの建物や門で囲まれている。 ㊧は東側で、左から左翼門、体仁閣、崇楼、㊨は西側で、左から貞慶門、崇楼、弘義門。西側は逆行で写りがもう一つ。
 

太和殿
紫禁城の主殿。三大節(元旦、冬至、皇帝誕生日)や皇帝の即位、婚礼、出兵令、 科挙殿合格者との接見などの重要儀式が行なわれた場所である。

太和殿内の宝座
太和殿内には金色に彩られた宝座が。

中和殿と保和殿
太和殿の後ろへ廻ると、中和殿(左手前)と保和殿(右奥)が見えてくる。

中和殿
儒教の中庸思想を体現した宮殿。皇帝が太和殿で大典を行なう際、一時休息し、祝賀を受けた場所。

保和殿
明代には皇后や皇太子の冊立(正式即位)の大典を行い、皇帝が太和殿に行く前にここで着替えた。 清代には皇帝が大晦日と正月15日に外藩、王公、大臣、外国行使を招き宴会を行なった。乾隆帝の時代には、科挙の試験がここで行なわれ、 皇帝自ら命題したという。

保和殿(左)と乾清門(右)間の広場
太和殿・中和殿・保和殿まで(写真左側)が外朝で、皇帝が年中行事、婚礼、 国事発令などの大礼を行なった場所であり、乾清門から北(写真右側)は内廷で、皇帝が官吏の召見、外国使節との接見、奏報の批閲などの聴政 (政務処理)をした場所である。但し、今回のツアーでは内廷は見学しなかった。

内廷の東サイドの路地?
内廷の東西両サイドは、皇帝一族などの生活の場所であったようで、途轍もなく多くの建物が入り組んで、 まるで迷路のようになっている。そして、映画「ラストエンペラー」で溥儀が、子供の頃に遊んでいたこのような路地?がいくつもあった。

御花園(ぎょかえん)  ㊧万春亭、㊨御景亭
御花園は、宮殿群の最北端にあり、欽安殿を中心に建物を、左右対称に配置してある。 ㊧万春亭も西側の千秋亭と対をなしている。㊨「太湖石」の築山は、明代は「堆繡山」と称されたが、淸代に「堆秀山」と改められた。 毎年重陽の節句には、皇帝が皇后・妃たちを従えてこの「御景亭」に登り、観月したというが、今は危険な為、登れないようだ。
 

順貞門
門の北側(神武門との間)から撮ったもの。左奥の楼は、築山「堆秀山」の上の御景亭。

神武門(城内側から)
故宮の最北端の門で、もとは北を司る神・玄武に因んで玄武門と呼ばれていた。楼内には鐘楼があり、 黄昏時に108回、夜回りも鐘が鳴らされた。皇帝に仕える官吏や宦官が、夕刻の鐘とともにここから出て行った。

神武門(城外側から)
門にかけられた扁額の「故宮博物院」の文字は、中国の文学者・詩人・作家・歴史家で、 日本ともゆかりの深い郭沫若氏のよるものだそうだ。

北側の濠(筒子河)と神武門
見事な濠が残っている。やはり城には濠がよく似合う。

北側の濠(筒子河)と角楼(北東隅)
 

【景山公園】
故宮の北側にある人工の山である。風水では北から邪気がやってくると信じられており、 それから居城を守るため作られたといわれる。明・清代の皇帝の庭園となった山で、明代に紫禁城を築いた時、元の宮殿であった延春閣の跡地に、 堀を掘った時の残土で五つの峰を形成する形に造られた。紫禁城に殺気が入ることを防ぐために、紫禁城の真北に作られたと言われている。 これは背山面水という風水の考え方を実現したものであるという。民国時代に景山は公園化された。

紫禁城を見下ろす
景山公園にある「万春亭」から見渡す紫禁城の光景が見事だそうだが、今回のツアーには入っていなかった (無念!)。止むを得ず、ツアー会社から買った冊子から掲載したが、真ん中に折り目が...(汗)。

【天安門広場】
かつて皇帝の居城であった紫禁城(現故宮博物院)の正門に当たるのが天安門(写真奥)である。往時は、 ここから現在の広場一帯にかけて皇帝専用通路が続き、その両側に赤塀の役所が続いていた。現在の広場は、東西500m、 南北880mもの世界最大の広さを誇り、100万人が収容できるという。1949年の中華人民共和国建国式典の前に整備され、以後、 一帯には、中国国家博物館(写真右)や人民大会堂(写真の左側にあるが写っていない)などが建てられた。

天安門前から広場を
天安門の前を道路が走っており、広場へ渡るには地下道を通って行く。広場には幾つかのオーロラビジョン (写真右など)が設置されている。写真左は中国国家博物館、写真奥は毛主席紀念堂、中央奥の柱は民族団結柱。

民族団結柱
中華人民共和国建国60周年の記念式典に向けて、計56本の「民族団結柱」が建設された。、「56」 という数字は、全中国に住まう56の民族を表したもので、柱の表面には、 伝統衣装をまとった中国56民族の男女が歌い踊る様子が描かれている。柱の上部と底部には、 人民大会堂の柱と同じ蓮の花びらのレリーフ加工が施されている。同柱の高さは13.6mで、重さは1本当り26tとのこと。私が行った前日 (2009/9/14)にお披露目したばかりのようだ。

正陽門(右)と箭楼(左)
通称前門。天安門広場の南端に座す門で、明・清時代の北京内城の正門で、皇帝や皇后の専用門として使われた。 1900年に8ヶ国連合軍の攻撃により焼失したが、5年がかりで修復した。門の南には防衛用の箭楼(左)も建つ。

北京城の城壁は今・・・。
かつては、中国の多くの都市がそうであったように、北京も城郭都市で、周囲を城壁がめぐっていた。 その総延長距離は何と20kmもあったというが、今では跡形もなく、広い道路になってしまっている。その道路の多くは片側6車線もあるが、 それでも一日中渋滞のようで、一説に北京の人口が2千万人以上であるというのも肯ける。

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コメント

小瀬憲昭(2009/10/06)

紫禁城もまた中々見応えがありますね。
特に内邸の路地は風情があっていいですねえ。
そして御花園の万春亭も変わった建物ですね。
いずれにせよ、このところ、現代中国が力をつけてきて
今や世界のリーダーにならんとしていることには一抹の不安がありますが、万里の長城や紫禁城はじめ中国の歴史や史跡をみると底力は大変なものがあると思わざるを得ないです。

10/13からの北海道旅行での再会を楽しみしています!
奥様にも宜しくお伝えください。

タクジロー(2009/10/07)

なんか首里城の大型版といった感じでした。
私は、やっぱり日本の城の方が好きだと思いました。
中国、確かに多少の不安は感じますね。
北海道旅行での再会、楽しみにしています。

紫禁城(2009/11/18)

全体としては大きいが、1つ1つの建物は日本の木造建築のほうが案外大きいんだよね。
横幅に長いが、奥行きが短いからね、中国の建物は。
最大の太和殿も奥行きは幅が64mで37m、高さ35m。

世界最大のお東さんんお御影堂は同じく76m、58m、38mで大和殿がすっぽりと入る。

タクジロー(2009/11/19)

紫禁城さま
ご訪問有難うございます。
確かに東本願寺の御影堂はデカイですよね。
奥行きの長さが大きく違うことまで気が付かなかったです。
確かに、紫禁城の建物は、太和殿をはじめ全て奥行きが短かったですね。

木造マニア(2009/11/19)

 日本も昔は奥行きが短いです。それは、奥行き方向に架けられる木材(梁)が屋根を支えるからで、長くしにくいらしいです。三十三間堂も、幅は110m以上なのに奥行きは16m。やはり木造は、横に長くしやすいが、奥行きを長くしにくい。大仏殿は昔ながらの架け方ですが、太和殿と同じく超巨大な梁を使って奥行きを稼ぐ特殊な例です。
 一方、中世以降に日本は屋根と軸部(柱や梁)を切り離し、梁をどんどん繋いで奥行きを稼ぐ方法を開発します。屋根と梁の間には束が立ち、屋根裏は木材が縦横に走りまくるようになるので、天井で隠します(古民家では隠さない例も多い)。
奥行きを長く取れる反面、屋根が豪放になり過ぎて屋根に埋もれるような外観になってしまう場合もあります。一長一短ってことでしょうかね・・・・

タクジロー(2009/11/20)

木造マニア様
丁寧に説明して戴きありがとうございます。
天井を隠さない大きな古民家は、例えば白川郷の建物などでしょうか?
私は、天井で隠さないで梁が見える建物、結構好きです。
ところで、熊本城ですが、本丸御殿などが復元されて以降、まだ未訪問なのですが、こちらのサイズや梁などの構造はどうなのでしょうか?
どうも私は、今までどちらかというと土木系に興味を持っていたようで、建築物には非常に疎いのですが、木造マニザ様のお陰で、建築系にも興味が湧いてきました。
有難うございます。

木造(2009/11/20)

 白川郷は違う構造ですが、伊豆の江川家住宅や、高山の松本家住宅とかですかね。江川家住宅の屋根裏は凄いです。
熊本城の本丸御殿は未訪問ですが、なかなか大きいですね。サイズは分かりません。因みに御殿は書院造で、典型的な新式(中世以降に発展した方式)です。
 ただ、新式は別に奥行きを長く取らなくても、柱を屋根構造に制約されることなく建てられる利点があり、部屋を比較的自由に作れます。書院造はその典型です。
 逆に、旧式は屋根構造に柱の位置が制約されます。寝殿造は典型で、書院造に比べて柱が規則的にずらりと並びます。

 部屋は新式の方が自由に作れますが、屋根裏が見苦しくなります。また、部屋に高さ感を出すなら旧式の方がいいかも知れません。

タクジロー(2009/11/21)

江川邸の大屋根を支える豪壮な架構は確かに凄いですね。
神殿造りと書院造りの違いや中世前後を屋根構造での違いから見たことはありませんでした。
また、いろいろ教えてください。
ありがとうございます。

木造(2009/11/21)

いえいえ、プロフィールを読むとタクジローさんは私より大先輩なのに、しゃしゃり出てきてすみません。これからも良き旅を続けてください。

タクジロー(2009/11/24)

木造さま
これからも、ちょくちょくご訪問下さい。
いろいろなことを教えて戴くのを楽しみにしています。

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