山城 淀古城(京都市)

秀吉が淀君の初出産(鶴松出産)のために大修築した城

別名

淀城、藤岡城

所在地

京都府京都市伏見区納所北城堀

形状

平城

現状・遺構

現状:市街地
遺構等:石碑

満足度(10点満点)

1点

歴史等

淀とは、水が流れずによどむ意である。よどむのは、この地で諸河川が合流するためで、桂川・宇治川・木津川が合流し淀川となる。 この淀の地は、古来から、淀川をさかのぼってきた瀬戸内から京への物資が陸揚げされる地であった。
この立地から2つの城が築かれた。1つは江戸時代の城。もう1つは室町時代以来の歴史を持つ城で、江戸時代の城に対して淀古城と呼ばれた。
淀古城は、京を確保しようとする勢力、または京をうかがう勢力が争奪を繰り返した。当地に城を構えたのは、摂津の守護代薬師寺元一が、 守護の細川政元に反抗して「淀之城」に立て籠もったのが最初だと言われている。その後、三好三人衆の一人岩成友通が、天正10年(1582) には明智光秀が居城地とした。
秀吉は光秀攻略後、一時小野木重次に城を預けたが、同17年、異父弟羽柴秀長に命じて、淀古城を大改築をさせて、出産間近な茶々を迎えた。 そこから、茶々は淀殿、後世淀君と呼ばれる。
しかし、この城で生まれた鶴松は同19年に3歳で病死した。
鶴松の死で、甥秀次が秀吉の養子となった。しかし、朝鮮侵略の中、淀君が秀頼を生み、軋轢から秀次は破滅し、 この城を預かっていた木村常陸介も連座、城は廃城となった。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「日本100の城(日本交通公社刊)」参照』

現況・登城記・感想等

淀古城跡は、全く市街地の中に埋まってしまっている。
淀城に寄ったおり (2006/12/22)に、淀城の北500mの所にあるという 「淀古城の石碑」を探し、散々歩き回ったが見つからなかった。地元の人20名以上の方に聞いたが誰も知らなかった。 淀古城と江戸時代の淀城が違うことを知っていた人さえ一人しか居なかったのには絶句! こちらがマニアックなのかなあ!!
そして翌々日、旧来の同僚「増っさん」に付き合ってもらい、再度チャレンジ!しかし、石碑があるという妙教寺が見つからない。 すぐそばの小学校までは探り当てたものの、やはり見つからない。時間もないし、この辺り(納所)全てが淀古城の跡地だと自分に言い聞かせて、 諦めて帰った。
本日(2007/01/13)、増っさんから淀古城石碑が見つかったとのメールを写真付きで届いた。 先日行った小学校の裏10mほどに妙教寺があり、その境内に石碑があったとのこと。そして、その西20mが淀川とのことである。 またの機会に寄ってみよう。

ギャラリー

「淀古城址」と「戊辰役砲弾貫通跡」の石碑

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