白村江の戦いに大敗し、唐・新羅の来攻に備えて造られた朝鮮式山城の一つ
別名
土居山
所在地
福岡県太宰府市国分2丁目、水城他
形状
水城・防塁
現状・遺構
遺構:土塁(堤)
満足度(10点満点)
4点
訪城日
2007/02/09
歴史等
7世紀中頃、朝鮮半島では、百済・新羅・高句麗の三国が抗争を繰り返していた。
天智2年(663)、大和朝廷は、唐・新羅に攻撃された百済王朝を支援すべく朝鮮半島へ出兵したが、白村江の海戦で大敗北を喫した
(白村江の戦い)。この戦いで朝鮮半島の日本・百済連合軍は壊滅状態となり、百済は完全に滅んだ。
唐・新羅の来攻を恐れた朝廷は、対馬・壱岐・筑紫などに烽(とぶひ)と防人を配置し、さらに瀬戸内海沿岸から大和(奈良県)
に至る防衛ラインとして、多くの朝鮮式山城を築いた。水城もその一環として翌天智3年(664)に築かれた。
これは、後に大宰府となる出先機関を防衛するためのものである。大宰府の前身や設置時期についてはよく分かっていないが、
それまで恐らく博多湾沿岸にあっただろう筑紫大宰の役所を、もっと内陸部へ移動させて拡充し、防衛する目的で築かれた。
水城大堤は、博多沿岸から筑紫野に広がる平野が最も狭まった地にあり、その狭隘部を堰切るかたちで築造されている。また、
付近にあるいくつかの小丘陵の間も、天神山土塁・大土居土塁・上大利土塁といわれる「小水城」で塞がれている。
大堤の規模は、長さ1.2km、高さ13m、土塁の幅(基底部)80mに及ぶ広大なもので、土塁を挟んで、博多湾側には幅60m・
深さ4mの外濠があり、大宰府側には内濠があった。また、土塁を通過する官道には東西それぞれに城門があった。
大和朝廷はこのような大規模な防衛施設を造ったが、結局、外敵の侵入はなく水城が実戦で使われることはなかった。ただ、後に鎌倉時代、
文永の役(1274)の元寇では、博多湾岸の緒戦で元軍に敗れた日本軍が、いったん、水城へと後退して陣を立て直している。なお、この時、
既に水濠は埋まっていたらしい。
『参照:日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)、現地説明板』
現況・登城記・感想等
水城の東門の礎石が残る公園へは、大宰府ICを降りて大宰府天満宮に向かって進むとすぐ近くにある。そこから土塁(大堤)
の上に登って行くことが出来る。今では、土塁は木々がみっしりと生い茂ってしまっているが、その土塁の上から、
高速道路等々でずたずたに分断されてしまってはいるものの、遠くの背振山の方に向かって水城(堤)が伸びているのがよく分かる。また、
その両側の地形がそれとなく水濠跡であるのも、先入観のせいかもしれないが、分かるような気がした。
1400年も前に、よくこれだけ大規模なものを造ったものだと感慨(天智天皇の暴挙・暴政も含めて)にふけりながら眺めていた。
この後、岩屋城址・大野城址へ行った。水城は1.2kmもの長さがあり、天気が良ければ、
岩屋城跡や大野城跡から全体がよく見えるようであったが、今日は曇時々霧雨で霞んで見えただけであったのは残念!
(2007/02/09訪ねて)
ギャラリー
水城大堤の石碑(後ろの土塁が水城の大堤の断面)
水城東門の礎石
(土塁を通過する官道には東西それぞれに城門があったとのこと)
水城大堤下の道路横から撮影(写真右側が外濠があったところ)
大堤上から
大堤の規模は、長さ1.2km、高さ13m、土塁の幅(基底部)80mに及ぶ広大なもので、土塁を挟んで、
博多湾側には幅60m・深さ4mの外濠があり、大宰府側には内濠があった。
土塁の上から、高速道路等々でずたずたに分断されてしまってはいるものの、遠くの背振山の方に向かって水城(堤)
が伸びているのがよく分かる。正面の堤の右側が博多湾側で、左側が大宰府側。それぞれに濠があったのが分かるような地形?
それとも単なる先入観のせい?
大堤(土塁)の上に登って
所々に「史蹟水城址境界」の石碑がある。また、
この土塁上の道を進んで行くと岩屋城址や大野城址へも行けるようである。