若き伊達政宗が会津侵攻の拠点とした城
別名
下館
所在地
福島県二本松市小浜字下館(旧岩代町)
形状
平山城
現状・遺構等
現状:公園、畑、山林
遺構等:曲輪、空堀、堀切、石垣、模擬門、石碑、説明板
満足度(10点満点)
5点
訪城日
2007/04/22
歴史等
現地案内板によると、小浜城の成立は、奥州探題の置かれた塩松(四本松)城の支城として南北朝騒乱期に創築されたとなっているが、
他の資料等によると、大内氏はもともと若狭国小浜に住んだが、晴継の代に塩松に来住して石橋棟義の臣となり、
その子宗政の代は石橋義衡に仕えて、文明年間(1469~87)にこの地に城を築き旧領地の若狭国小浜の名を取り「小浜城」と名付け、
居城としたともある。
永禄12年(1569)、大内備前定綱は、石川弾正、寺坂信濃(四天王)等と共謀して、時の宮森城主大河内備中(石橋四天王の筆頭)
を攻撃し、大河内家を滅ぼした(永禄の変)。さらに主家石橋氏をも追放し、小浜城を居城とした。
しかし天正13年(1585)9月、伊達政宗により、小手森城が攻撃され、
大殺戮にあった(詳細は小手森城参照)。
この惨劇に恐怖した定綱は自ら小浜城に火を放ち、二本松を経て、会津に逃れた。
そして小浜城には政宗が、宮森城には輝宗が入ったが、同年10月8日、和議の御礼の為に訪れた二本松城主畠山義継に拉致され、
阿武隈河畔粟ノ須で最期を遂げる「*粟ノ須の変事」が発生した。その後、天正14年(1586)に畠山氏を滅ぼし、復讐を遂げた政宗は、
天正17年(1589)には、芦名氏を滅ぼし、黒川城
(後の会津若松城)に入り、小浜城には城代として白石若狭守宗実を置いた。
しかし、豊臣秀吉の奥州仕置きによって、天正18年(1590)以降は、蒲生氏郷の領土となり、会津若松城の支城となった。
次いで上杉景勝のものとなった。
その後、元和元年(1615)の一国一城令により小浜城は廃城となったが、寛永20年(1643)丹羽光重が二本松城に入ると、
塩松地方の代官をこの地に置くようになった。
現在、城址には蒲生氏時代の石垣が残るほか、堀切、空堀や多くの曲輪跡が認められる戦国末期の東北地方屈指の大城郭である。
【粟ノ須の変事】
畠山義継は、伊達氏と芦名氏の間を、従う如く転変する一方で、小浜城の大内定綱と婚姻を通じ結ぶ。やがて小浜城は政宗に攻められ、
義継は芦名氏と共に、定綱を助けて戦った。しかし定綱は破れ、二本松を経て会津へと走った。
義継も政宗には勝てぬと感じ、政宗の父輝宗の斡旋で投降した。
義継はその礼と称し、輝宗の陣営に参上した。輝宗が玄関まで見送ると、義継は突然その胸を摑み、刀を突きつけた。伊達家の家臣は慌てたが、
輝宗は畠山の家臣に囲まれており手が出ず、連れ去られた。政宗は、異変の急報を受けて、父輝宗のあとを追う。
義継らは阿武隈河畔に達しており、対岸は二本松領である。
小説や劇に、この場面がよく描かれ、状況の解釈は分かれる。ともあれ川を渡らせてしまえば、取り返しがつかない。
政宗は義継を銃撃させて斃し、輝宗はまた畠山勢に殺される。
『「歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)」、『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「「小浜城址・宮森城址・
小手森城址説明板」参照』
現況・登城記・感想等
小浜城へは、旧岩代町役場に駐車して登城した。役場には「富士山が見える北限」との案内があった。
登城始めると、段曲輪や土塁が確認出来る。そして左上の方に、小浜城址の丘が見えてくる。いかにも城址らしい絵になる光景である。また、
一部が残る石垣も見える。この石垣は、蒲生氏時代のものだそうである。
本丸への階段入り口に、何故か模擬門が建っているのはちょっと不自然かなあ。
本丸からの眺望はなかなかのものであるが、残念ながらの曇り空。当然、富士山は見えない。尤も、ここから富士山を望むには、
冬のよっぽど澄み切った晴れの日にしか見えないとは思うが。
本丸はそれなりに広く、二段になっており、発掘調査結果の説明板によると、低い方に重要建築があったとのことである。
本丸北西隅の方に、「宮森家祖大内城趾」という石碑と政宗手植えの細長い松というのがあった。この石碑は、
大内氏の子孫という会津若松の造酒屋宮森家が立てたものだという。(余計なお世話であるが、歴史を調べると、
この陸奥大内家というのはあまり・・・の気がするが・・・。余計なお世話ですね。)城址の石碑は本丸虎口上の土塁上にも小さな「小濱城趾」
という碑が立っている。
本丸は北・東・西の3方向が堀切によって断ち切られている。特に、北側の堀は非常に深く大規模であるが、自然の谷に手を加えたものであろう。
期待していたよりも遺構がよく残っている城址であった。
(2007/04/22登城して)
ギャラリー
小浜城遠景 ~クリックにて拡大画面に~
旧岩代町役場から登城し、しばらくすると左上の方に、小浜城址の丘が見えてくる。
いかにも城址らしい絵になる光景である。また、一部が残る石垣も見える。
小浜城復元絵(現地説明板より)
~クリックにて拡大画面に~
昭和56年の発掘調査に基き、日本城郭資料館長・西ケ谷恭弘氏が復元したもの。
本丸に一部残る石垣(この石垣は蒲生時代のものである)
本丸虎口の模擬門
㊧本丸跡と、㊨本丸虎口上に立つ「小濱城趾」の碑
本丸北西隅に立つ「宮森家祖大内城趾」の石碑
この石碑は、大内氏の子孫という会津若松の造酒屋宮森家が立てたものだという。
伊達政宗手植えの松
本丸北側堀切
本丸は北・東・西の3方向が堀切によって断ち切られている。特に、北側の堀は非常に深く大規模であるが、
自然の谷に手を加えたものであろう。
本丸西の堀切