水堀越しに横町口蹴出門(搦手門)と石垣を
日本最西端に築かれた江戸時代最後を飾る和式の城
別名
福江城
所在地
長崎県五島市池田町1-1、五島高校周辺
形状
平城(海城)
現状・遺構等
現状:本丸跡には五島高校、二の丸には福江文化会館、五島観光歴史資料館、市立図書館、
五島家始祖家盛らを祀る城山神社がある
遺構:城門(搦手門)、土塀、石垣、水堀(内堀・外堀)
満足度
★★★☆☆
訪城日
1992/2月、他数度
歴史等
江戸時代に五島列島を支配した五島氏は、中世には海賊・松浦党の一族で、その名の通り、
五島列島の北端に位置する宇久島が発祥の地である。それが、南北朝時代末期に福江島に移り、岐宿・辰の口を経て、江川城を本拠とした。
文禄元年(1592)、宇久純玄が、朝鮮出兵にあたる秀吉に仕え、本領五島や松浦郡に1万5千石余を安堵され、五島氏と改姓した。以後、
徳川幕府からも代々本領を安堵されて明治維新に至った。
この間、慶長19年(1614)に、江川城が火災で焼失したが、無城主格の大名で築城を許されず、陣屋をもって藩庁とした。このため、
五島氏にとっては、大名として城郭を持つことが代々の悲願となった。
しかし、幕末になり、長崎をめぐる外国船の出入りが激しくなるにつれ、五島の海上を防御する拠点が必要となった。そして、嘉永2年
(1849)、幕府は福江港をとり込む石田城築城の許可を五島氏に与え、福江藩は念願の城郭を営んだ。
築城には14年を費やし、工費は2万両、夫役人は5万人を要して、完成したのは、文久3年(1863)のことであった。松前城は安政元年
(1854)に完成しているから、和式城郭としては、最後の築城となった。
城郭は、東西約291m、周囲1,346m、本丸、二の丸、三の丸からなり、築城当時は三方を海で囲まれた海城であった。
海防目的で築かれた城らしく、港と海岸に面する石垣上には砲台が据えられた。
しかし、4年後には明治元年となり、明治5年には石田城は新政府に収納され売り払われた。わずか、10年足らずであった。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「日本100の城(日本交通公社刊行)」、「現地説明板」参照』
現況・登城記・感想等
仕事の関係で五島へはよく行ったが、石田城址は、なかなかじっくりと見て回ることは出来なかったので印象が薄いが、
水堀と石垣や土塀が結構残っており、今考えると、かなり見応えのある城址であったのではと思う。
五島は魚が本当に美味い。メジナ(長崎では「くろ」という)・あおり烏賊(長崎では水烏賊といい、刺身は勿論、一夜干しも絶品)・キビナゴ
(長崎ではキビナといい、生でも鍋でも美味い)・雲丹(特に赤雲丹は最高)・鯵(最近ゴン鯵と銘々して出しているらしい)・箱ふぐ
(これは五島名物で絶品)とどれをとっても最高に美味い。そういうわけで、五島へ行くと「飲み食い」と仕事?だけしか頭になかった。
東京へ戻り、さすがに五島まではなかなか行けず、今になって、一度じっくり見ておけば良かったと悔やんでいる。
【今回写真更新にあたって】
一昨日、昨日と2日間にわたっての「ちゃんぽん会(長崎時代の飲兵衛の集まり)」で、今日は帰京であるが、
Y輔君は五島へ2泊で行くとのことである。いつも飲むと、翌朝は酔いつぶれて死んでいる彼であるが、五島へは嬉々として出掛ける。本当に、
五島が好きなのだろう。
長崎時代にはよく行った五島であり、石田城も何度か行ったことがあったが、搦手門の写真しか残っていなかったので、これ幸いとばかり、
写真撮影を頼んだ。
下写真は、前日の宴会でのY輔君(写真右)、写真中央はMやん、左手前はKちゃん
(一応、顔が分かりにくいように小さめで)
(2007/02/12)
そういうわけで、今回、石田城の写真を一新することが出来た。
ギャラリー
大手門枡形 ~クリックにて拡大画面に~
ここから、二の丸に入るが、
二の丸には福江文化会館、五島観光歴史資料館(写真奥)、市立図書館、五島家始祖家盛らを祀る城山神社がある。私が登城した頃
(1990年前半)には城山神社以外は無かったと思う。随分充実したものである。機会があれば、また登城したいものである。
横町口蹴出門(搦手門)
五島高校の入口になる。
横町口蹴出門と土塀(城の西側)
~クリックにて拡大画面に~
大砲狭間と矢狭間、銃眼が開けられた土塀が残る。
本丸跡の中仕切門(五島高校の正門)
この校門に利用されている城門は、透かし扉の古式な構えで、実戦重視の築城を物語る。
本丸入口(㊧外側から、㊨内側から)
本丸から鬼岳(おんだけ)
を望む ~クリックにて拡大画面に~
鬼岳と名前は厳ついが、五島CCや空港の傍にある、丸い愛らしい山で、
福江島の象徴的な山である。
五島邸入口
五島家第30代盛成公の設計で安政5年(1858)から2年かけて城内に造営された隠殿
(隠居所)。庭園は、京都の僧、善章に命じて造らせた。庭園は、金閣寺の丸池を模倣して造られ、
周囲の庭石と築山はすべて鬼岳の溶岩を用いた。植栽としては亜熱帯植物を配している点に特色がある。「心」の文字をかたどった池は、
心字が池と呼ばれている。
武家屋敷 ~クリックにて拡大画面に~
寛永11年(1634)、
第2代藩主五島における中央集権体制を目指し、家臣を、福江城下に強制的に住まわせた。市内でも最も保存の良いこの武家屋敷通りは、
中級階級の武士が住んでいた通りである。約400m続く石垣は、溶岩塊の石垣を積上げ、その上にこぼれ石という丸石を積み重ね、
両端は蒲鉾形の石で止められた、全国でも類例を見ない造りになっている。門はほとんどが薬医門である。
武家屋敷ふるさと館
武家屋敷通りの西側にあり、
市の文化財に指定された武家屋敷の遺構を生かして建設された。入場は無料で、休憩所としてくつろげるよう、茶を楽しめる和室、
喫茶コーナーがある。
常灯鼻 ~クリックにて拡大画面に~
10代藩主五島盛成(もりあきら)が、
石田城を築くにあたり、城の北東から吹き寄せる大波を防ぎ、築城工事を容易にする為に築かれたものと云われている。防波堤の役割の他、
灯台としての役割も持っていた。弘化3年(1846)に完成した。防波堤の大部分は、埋立て造成工事等により失われたが、灯台部分は、
築造から150年以上経った今も残っている。