松前城(松前町)

昭和24年に焼亡したため、昭和37年に復元された天守閣

最後に築かれた和式城郭も幕末・維新の戦乱に巻き込まれて落城

正式名称

福山城

所在地

北海道松前郡松前町松城

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 松前公園(国指定史跡) 
【遺構等】 本丸表御門(銅瓦葺櫓門)、本丸表御殿玄関、復元天守、復元搦手二の門、復元天神坂門、曲輪、土塁、石垣、水堀(外堀・内堀)、石碑、説明板ほか

【国指定史跡】
指定日:昭和10年6月7日
指定理由:近世に築城された平山城で、北海道唯一の大名城郭であり、蝦夷地の中心として威容を誇った旧時の規模を窺がうことができる。
面積:7万2,674㎡

満足度

★★★★

訪城日

1999/04/30
2012/07/31

歴史等

蝦夷地に和人が定住し始めたのは、11世紀頃と言われているが、平泉の藤原氏が滅亡すると、多くの藤原氏残党が落ちのびてきた。
また南北朝時代になると、戦に敗れた者達が続々と渡ってくるようになり、アイヌと和人の間で抗争事件が多発した。そしてアイヌとの戦いに勝利を収め、和人の棟梁となったのが武田信広(後の、蠣崎信広)である。
その5代目にあたる蠣崎慶広は、文禄2年(1593)豊臣秀吉より蝦夷島主と認める朱印状を受け大名と認められた。秀吉没後の慶長4年(1599)には家康よりアイヌ交易独占を許す黒印状を受け松前氏を名乗った。そして慶長5年(1600)、大館の居館の南方に新たに福山館の築城をし、慶長11年(1606)に完成させ松前城の前身となった。
江戸末期(1807~1821)、ロシア南下に備え蝦夷全島は幕府直轄となったが復領が認められた。嘉永2年(1849)海防強化のため幕府は、松前崇広を城主格に任じ、新城の築城を命じた。翌年着工、安政元年(1854)に完成した。日本式築城の最後の城となった。
明治元年(1868)、榎本軍に攻められ落城。
昭和24年には天守が焼亡、現在の天守閣は昭和37年に再建されたものである。
『参考資料:日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)』

感想等

復元天守は小さく、石垣もそれほど高いものではないが、切り込みハギの亀甲積みで非常にきれいな石垣である。
桜の本数がかなり多く見応えがありそうだが、残念ながら大型連休前半でもあり、まだ満開とはいかなかった。
(1999年04/30登城して)

13年前の登城時は桜が主役で、松前城の記憶といえば、内堀から望む復元天守(三重櫓)と本丸御門(現存)くらいだ。
今回、登城してみると、二の丸・三の丸の南東部にかけて、搦手二の門や天神坂門が復元されたのをはじめ、外堀や石垣、土塀、台場(砲台)等も復元整備されて、大きく様変わりしていた。
松前城を中心とする松前公園には、松前藩に関係する寺社やテーマパーク(松前藩屋敷)もあり、また、案内板等も充実しているので、半日ほどかけてじっくり見て廻りたいところだが、今回は、残念ながら、あまりにも時間がなくて、天守内へも入城できなかった(;>_<;)。
(2012/07/31登城して)

ギャラリー

松前城縄張図(現地説明板より)
松前城縄張図

【1999年4月30日の登城時】
松前町から松前城を望む
 
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復元天守
天守は第二次世界大戦後にも残っていたが、昭和24年に焼亡し、昭和37年に再建された。
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天守は小さく、石垣もそれほど高いものではないが、切り込みハギの亀甲積みで非常にきれいな石垣だ。
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天守閣(三重櫓)と本丸表御門 
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多門
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松前城の桜
今回は、花見がメインだったが、まだ満開ではなかった。それでも、かなり咲いている木もあり綺麗だった。
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臥龍梅
松前神社内(祭神 武田信廣)にあり、徳川3代将軍家光より松前家7世公広が拝領した白梅。
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【テーマパーク「松前藩屋敷」】
藩政時代の松前は「松前の5月は江戸にもない」とうたわれたという。その姿をテーマパーク「松前藩屋敷」として再現したという。再現された江戸時代の町並みは、全部で14棟ある。 
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【2012/07/31の登城にて】
【本丸周辺】
本丸表御殿跡
本丸表御殿跡は広い芝生の広場になっている。天守の右の建物は「本丸表御門」であるが、改修中のようだった。
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本丸表御殿玄関の碑
本丸表御殿の南隅(往時あった本丸表御門の北)に、御殿跡に背を向けて「旧松前城本丸表御殿玄関」の碑がひっそりと立っている。
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内堀と復元天守
TOP写真と同じ位置から撮ったものだが、桜の季節とはまた違った風情がある。
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多門
天守閣(三重櫓)の東側には多門があったが、遺構案内板には「多門櫓跡」とあった。櫓門だったのだろう。今は、そこから少し引っ込んだところに門が建てられ、天守方面への入城門になっている。
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【二の丸&三の丸周辺】 
二の丸・三の丸南東部復元計画図(現地説明板より)
前回(1999/04/30)の登城時から、この周辺がよく整備され大きく様変わりしていたが、説明板に「復元計画図」とあったが、まだまだ復元工事が進むのだろうか? 
二の丸と三の丸復元計画図

二の丸跡
この二の丸には土蔵が建っていたようで、その南側(写真奥)には二重太鼓櫓が建っていた。
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二重太鼓櫓跡
二の丸南東隅にあり、城内3ヶ所にある二重櫓のうち敵の侵入を監視する上で最も重要な位置にあって、海上はもとより、海岸線、市街地、三の丸と広範囲を見渡すことができた。また、平常時にはその名のとおり、太鼓をうち、時を知らせる役割をしていた。(現地説明板より)
今でも、ここからは海や市街地の眺めが素晴らしい。
 
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二重太鼓櫓古写真(現地説明板より)
櫓の構造は、屋根は銅版葺で、壁は大壁(柱を外部に出さない壁)であったことが慶応3年(1867)に撮影された古写真から分かる。(現地説明板より)
二重太鼓櫓古写真

復元搦手二の門(城内側から撮影)
搦手二の門は高麗門で、城内側(写真手前)は枡形になっていたようで、この辺りは、まだこれから復元工事がされるのだろうか?。
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搦手二の門脇の隅櫓跡
この櫓は、東郭にあり、主に東方から侵入する敵を監視する位置にある。東郭は、内堀を挟み本丸へ通じる重要な郭で、搦手桝形・北郭とともに東方の備えであり、その要となる建物がこの隅櫓だった。櫓の規模は、絵図「福山城見分図」から、一階の柱芯間が桁行四間(7.272m)、梁間三間(5.454m)であったことが判る。また、発掘調査を行った結果、出土した土台石の規模が、絵図寸法と一致する事が判明した。(現地説明板より)
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搦手二の門脇の隅櫓古写真(現地説明板より)
櫓の構造は、屋根は銅板葺で、壁は大壁(柱を外部に出さない壁)の二重櫓であった事が、慶応3年(1867)に撮影された古写真から判る。(現地説明板より)
東隅櫓古写真

三の丸(搦手二の門前から撮影)
二の丸と三の丸の間には外堀が設けられている。写真やや左の覆屋は7番台場で、右奥に見えるのは5番台場跡。
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外堀
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搦手二の門と天守方面を(三の丸から撮影)
搦手二の門前には三本松が植えられ、蔀のようになって門内が見えづらくなっている。外堀に架かる橋の脇に松前城の模型があるが、この辺りは番所跡である。
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5番台場跡
三の丸には、このような台場(砲台)が7つあったそうだがが、何故か6番台場はまだ復元されていないようだったが・・・?
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復元天神坂門
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天神坂を見下ろす
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コメント

ベティ(2007/03/02)

楚々としてかわいいお城ですね。机に飾りたい感じです。
松前の近くに江差という町があります。お城ではありませんがニシン御殿のような旧商家がありますね。

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