城址山麓の城址碑
武田軍がこの城に陣を構え、薩捶山の北条氏康軍と興津川を挟んで対峙
別名
興津城
所在地
静岡県静岡市清水区谷津2丁目
形状
平山城
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、石碑、説明板
満足度
?????
訪城日
2007/04/14
歴史等
横山城は興津城とも呼ばれ、今川氏の重臣であった興津氏の居住した城である。興津氏は入江氏(藤原)の一族で、はじめは興津郷の地頭、
後に美作守氏清の時代には、富士上方上野郷の地頭も兼ねていたことが「大石寺文書」に見え、今川氏が駿河国守護として入部以来は、
その被官となった。
延文年間(1356~61)、興津美作守は興津館(興津本町字古御館)より、本拠をここに移し、山上に城を築き、
山麓に土塁を巡らせた居館を構えて城郭とした。そして永禄11年(1568)12月、
甲斐の武田信玄の侵入により落城するまで興津氏代々の居城であった。
この城を奪った武田氏は、直ちに改修に着手し、翌12年(1569)2月には完了し、穴山梅雪(江尻城主)
の管理下に置き、城番が交代で防備した。そしてこの年正月、氏真の援軍として出陣してきた北条氏康の軍(薩捶山に陣をとる)と、
4月29日に撤退するまで90余日にわたり興津川を挟んで対戦し、武田軍の依る横山城に後北条氏の北条氏邦軍が来襲したり、
逆に武田軍の伏兵が、薩捶山に攻めた記録も残されている。
その後も横山城は、武田氏の支城として重要視されたが、天正10年(1582)武田氏の滅亡と共に廃城となった。
『「現地案内板」、「静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)」より』
現況・登城記・感想等
国道1号線(静清バイパス)興津インターから国道52号線を3kmほど北上し、谷津信号を越してすぐ左に曲がる道
(ガソリンスタンドがある)を左折して、150mほど行き突き当たった、比高30mほどの低い山が横山城跡であり、石碑と説明板がある。
ただ、谷津地区は、とにかく道幅が狭く、路上駐車もままならない。また駐車できるような所も見つからなかず、石碑の横から登る道があったが、
登城を断念した。
区画整理計画があるのか、区画反対の看板が見られた。整理した方がいいと思うがなあ!!
今日は天気も良く、富士山がよく見えるようなので、静清バイパスを通って由比経由で帰ることにした。
(2007/04/14登城して)
ギャラリー
横山城全景
登城口の石碑と説明板
谷津地区は、とにかく道幅が狭く、路上駐車もままならない。また駐車できるような所も見つからなかった。
石碑の横から登る道があったが、登城を断念した。
帰り道(静清バイパスの由比辺りから富士山を)
~クリックにて拡大画面に~
今日は、天気も良く、富士山がよく見えるようなので、静清バイパスを通って、由比経由で帰った。
安藤広重の「東海道53次の由比」はこの左の山上の薩捶峠から描いた富士である。