岩代 小手森城(二本松市)

本丸跡に祀られた神社

伊達政宗により大殺戮にあった惨劇の城

所在地

福島県二本松市針道字愛宕森

形状

平山城

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、石垣、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2007/04/22

歴史等

小手森城(おてのもりじょう)は、小浜城主大内定綱によって築かれた山城である。
天正12年(1584)10月、伊達輝宗は隠居し、息子の政宗が当主となった。政宗襲封の報が伝わると、近隣の諸豪族は、 当時伊達氏の本拠であった米沢城に馳せ参じている。その中には、小浜城主大内定綱もあった。 大内氏は、以前は伊達氏に従っていたが、この頃は伊達氏と敵対関係にある会津の芦名氏を頼っていた。 その大内定綱が政宗襲封の祝賀にやって来て、米沢に屋敷を拝領して、そこに家族を住まわした上で伊達家に臣従したいと申し入れたのである。
政宗は、その願いを聞き入れたが、一度小浜へ帰った定綱から何の音沙汰もないので、 催促の使者を送ると、定綱は「たとえ大内家が滅亡しても、伊達家に臣従する気は毛頭ない」と、うそぶいた。定綱の後ろには芦名氏がいて、 代替わりした伊達氏の実力のほどを測ろうとしていたのである。
こけにされた政宗は激怒し、天正13年(1585)5月、芦名氏に攻撃を掛けるが失敗に終わった。しかし、それでも政宗はめげずに、 同年8月23日、大内氏打倒の兵を挙げ、最初に大内氏の支城小手森城への総攻撃を開始した。城は、大内定綱の臣・菊池顕綱らが守っていたが、 力尽き、8月27日ついに落城した。総攻撃の際に、政宗は、城を撫で斬りにすることを命じた。つまり、 城内に篭った農民等の老若男女も合わせ800余名、また牛・馬・犬・鶏まで、全ての生けるものを殺害する命令が下されたのである。そして、 その命令は忠実に実行され、多くの生命が消されたのである。
この戦いの後、功により小手森城を与えられた石川弾正も、3年後の天正16年(1588)、相馬氏と手を組んで、伊達氏に抵抗し、 小手森城に兵を挙げた。政宗は同年閏5月12日優勢な兵をもって、背臣への総攻撃をかけた。小手森城は、 再び500余名が討死するという惨劇に見まわれたのである。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「現地説明板」より』

現況・登城記・感想等

旧東和町役場のすぐ南側の愛宕の森が小手森城址であるということで、円錐形をした独立丘が見え、すぐに分かったが、 登城口がわからない。地元の方に尋ねたところ、役場の反対側に登り口があるとのこと。又、午前中はそこで祭をやっていたとのことであった。
さて、登城口が見つかり登り始めると、一旦細い舗装道に出る。そのなだらかな坂道を少し行くと、林の中に登って行く道がある。その道に入り、 しばらく行くと、50~60度はあるのではと思われる急な階段(確か169段あった)がある。ずーっと上を見上げると、祠らしきものが見え、 それが本丸跡であった。
階段を登りきった所に祠(神社)と説明板があり、石垣の残骸らしき石があった。本丸はかなり狭い。 本丸の右奥下には腰曲輪のような削平地が伸びている。先端の方に物見櫓のようなものがあったのであろう。
本丸や腰曲輪の周囲は全て急崖になっており、かなり堅固な城であったのだろうとの推測は出来る。ただ、 他には曲輪らしき所は気が付かなかった。こんな小さな山の中の何処に800余名もの人が篭ったのか不思議だ。多分、 山麓に近い所に居たのであろうと勝手に推測・・・。
また、午前中は祭があったと聞いたが、一体何処に祭をやれる場所があるのか不思議だった。
(2007/04/22登城して)

ギャラリー

城址遠景
小手森城址の愛宕の森は、 円錐形をした独立丘

登城口
鳥居をくぐって行くと、 宅地の横の狭い登り道になっていた

急な階段
40~50度はあるのではと思われる急な階段(確か169段あった)がある。 ずーっと上を見上げると、祠らしきものが見えた。そこが本丸跡である。

本丸跡
本丸跡には小さな神社が建っていた。本丸跡は非常に狭く、石垣がわずかに残っていた。 ㊨写真の石は石垣かどうか分からないが。
 

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