岩代 小浜城(二本松市)

本丸土塁と一部残る蒲生氏時代の石垣

若き伊達政宗が会津侵攻の拠点とした城

別名

下館

所在地

福島県二本松市小浜字下館(旧岩代町)
二本松市役所岩代支所の北東300mほど。二本松市役所岩代支所の北側の道を右回りに廻って行くと小浜城址公園へ出る。左回りでも行ける。
二本松市役所岩代支所:二本松市北月山27、電話0243-55-2111

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】公園、畑、山林
【遺構等】曲輪、空堀、堀切、石垣、模擬門、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2007/04/22

歴史等

現地案内板によると、小浜城の成立は、奥州探題の置かれた塩松(四本松)城の支城として南北朝騒乱期に創築されたとなっているが、他の資料等によると、大内氏はもともと若狭国小浜に住んだが、晴継の代に塩松に来住して石橋棟義の臣となり、その子宗政の代は石橋義衡に仕えて、文明年間(1469~87)にこの地に城を築き旧領地の若狭国小浜の名を取り「小浜城」と名付け、居城としたともある。
永禄12年(1569)、大内備前定綱は、石川弾正、寺坂信濃(四天王)等と共謀して、時の宮森城主大河内備中(石橋四天王の筆頭)を攻撃し、大河内家を滅ぼした(永禄の変)。さらに主家石橋氏をも追放し、小浜城を居城とした。
しかし天正13年(1585)9月、伊達政宗により、小手森城が攻撃され、大殺戮にあった。この惨劇に恐怖した定綱は自ら小浜城に火を放ち、二本松を経て、会津に逃れた。
そして小浜城には政宗が、宮森城には輝宗が入ったが、同年10月8日、和議の御礼の為に訪れた二本松城主畠山義継に拉致され、阿武隈河畔粟ノ須で最期を遂げる「*粟ノ須の変事」が発生した。その後、天正14年(1586)に畠山氏を滅ぼし、復讐を遂げた政宗は、天正17年(1589)には、芦名氏を滅ぼし、黒川城(後の会津若松城)に入り、小浜城には城代として白石若狭守宗実を置いた。
しかし、豊臣秀吉の奥州仕置きによって、天正18年(1590)以降は、蒲生氏郷の領土となり、会津若松城の支城となった。次いで上杉景勝のものとなった。
その後、元和元年(1615)の一国一城令により小浜城は廃城となったが、寛永20年(1643)丹羽光重が二本松城に入ると、塩松地方の代官をこの地に置くようになった。
現在、城址には蒲生氏時代の石垣が残るほか、堀切、空堀や多くの曲輪跡が認められる戦国末期の東北地方屈指の大城郭である。

【粟ノ須の変事】

畠山義継は、伊達氏と芦名氏の間を、従う如く転変する一方で、小浜城の大内定綱と婚姻を通じ結ぶ。やがて小浜城は政宗に攻められ、義継は芦名氏と共に、定綱を助けて戦った。しかし定綱は破れ、二本松を経て会津へと走った。義継も政宗には勝てぬと感じ、政宗の父輝宗の斡旋で投降した。
義継はその礼と称し、輝宗の陣営に参上した。輝宗が玄関まで見送ると、義継は突然その胸を摑み、刀を突きつけた。伊達家の家臣は慌てたが、輝宗は畠山の家臣に囲まれており手が出ず、連れ去られた。政宗は、異変の急報を受けて、父輝宗のあとを追う。義継らは阿武隈河畔に達しており、対岸は二本松領である。
小説や劇に、この場面がよく描かれ、状況の解釈は分かれる。ともあれ川を渡らせてしまえば、取り返しがつかない。政宗は義継を銃撃させて斃し、輝宗はまた畠山勢に殺される。
『「歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)」、『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「小浜城址・宮森城址・小手森城址説明板」参照』

現況・登城記・感想等

小浜城は、丘の最頂部に置かれた本丸を中心に北・東・西の3方向へ延びる尾根筋に築かれている。本丸の東西両側は堀切によって断ち切られて東曲輪と西曲輪が設けられ、北側は急峻な切岸の下に曲輪が設けられており、基本的には連郭式平山城といえるだろう。
尚、北側の切岸は急峻で高低差の大きい大規模なものであるが、自然の谷に手を加えたものであろう。
一方、比較的なだらかな南側斜面にも塁段状に曲輪が設けられていたようである。
小浜城跡へは、二本松市役所岩代支所(旧岩代役場)に駐車し、その北側の道を右へ向かって歩き始めると、左手に段曲輪跡らしき様子が確認でき、その上の方に小浜城跡の丘が見えてくるが、如何にも城址らしい絵になる光景である。
また、本丸跡の一部に石垣も見えるが、この石垣は蒲生氏時代のものである。
現在は公園となっている本丸は三角形に近い不整形であるが、それなりに広く、二段になっており、発掘調査結果の説明板によると、低い方に重要建築があったとのことである。
そして、本丸虎口上の土塁上に小さな「小濱城趾」という石碑が立っている。
また、本丸北西隅の方に「宮森家祖大内城趾」という石碑と「政宗手植えの細長い松」というのがあるが、石碑のほうは、大内氏の子孫という会津若松の造酒屋宮森家が建てたものだという。
(2007/04/22登城して)

ギャラリー

小浜城復元絵(現地説明板より)
昭和56年の発掘調査に基き、日本城郭資料館長・西ケ谷恭弘氏が復元したものですが、本丸が総石垣のように描かれているが、流石にそれはなかっただろうなあ。
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小浜城遠景
二本松市役所岩代支所(旧岩代役場)に駐車し、その北側の道を右へ向かって歩き始めると、左手に段曲輪らしき様子が確認でき、その上の方に小浜城跡の丘が見えてくるが、如何にも城址らしい絵になる光景である。
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本丸跡
城跡を目指して左回りにぐるっと歩いて行くと、今では城址公園として整備された本丸跡へ出る。写真右の土塁の手前が東曲輪との間の堀切だが、堀切の写真も東曲輪の写真も撮り忘れてしまった(/。ヽ)

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本丸に一部残る石垣
本丸南面の一部には石垣があるが、この石垣は蒲生氏時代のものである。
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本丸虎口の模擬門
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本丸跡
公園となっている本丸は三角形に近い不整形であるが、それなりに広く、二段になっており、発掘調査結果の説明板によると、低い方に重要建築があったとのことである。
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「小濱城趾」と「宮森家祖大内城趾」の石碑
本丸虎口跡の土塁上には「小濱城趾」の小さな石碑が、本丸北西隅には「宮森家祖大内城趾」の石碑が建てられている。「宮森家祖大内城趾」の碑は大内氏の子孫という会津若松の造酒屋宮森家が建てたものだという。
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伊達政宗手植えの松
真偽のほどは分からないが、本丸北西隅には政宗手植えの松というのもあった。
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本丸北側切岸
本丸北側の切岸は急峻で高低差の大きい大規模なものであるが、自然の谷に手を加えたものであろう。
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本丸北側下(正確には北西下)の曲輪
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本丸西の堀切
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西曲輪(本丸上から撮影)
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