本丸手前の土橋
後北条流築城の面影がよく残る北条氏・小机衆の城
所在地
神奈川県横浜市港北区小机町806附近
(城址の周りは住宅地で道が狭く駐車場がないので、小机辻信号傍のコインパーキングに駐車。駐車場から登城口まで10分弱)
形状
平山城
現状・遺構等
現状:小机城址公園
遺構等:空堀、土塁、曲輪、土橋、櫓台、模擬冠木門、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2007/03/21
歴史等
築城の年代は明らかではないが、この辺りがひらけた12世紀以降と思われる。その頃は、この辺りは上杉氏の勢力下にあり、西方には、
その支配下の榎下城(緑区三保町)があったことから、それと関わりのある城と思われる。
その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起こした時、景春に味方した矢野兵庫介らが城に立て篭もり、
北方の亀之甲山(現在の港北区新羽町亀ノ甲橋附近)に帯陣した上杉方の大田道灌の率いる軍と戦った。
城は文明10年(1478)攻め落とされ、上杉氏も、やがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地となり、40余年間、廃城になっていた。
大永4年(1524)、一族の北条氏尭の城となり、笠原信為を城代として再興した。小机は地理的に、江戸城・
玉縄城・
榎下城などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後、軍事・経済の両面で極めて重要な役割を果たすことになる。
豊臣秀吉が小田原城を攻め落とし、
やがて小田原北条氏が滅び、4代目城主の弥次平衛重政が徳川家康の家臣として200石の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)
に住むことになり、小机城は廃城、その歴史を閉じることになった。『現地説明板より』
【北条支城網(衆と衆を結んだネットワーク)
】
後北条氏の地域支配と軍団の構成は、小田原衆・玉縄衆・小机衆・江戸衆・河越衆などと呼ぶ集団・「衆」組織であった。狼煙連絡ルートも、
この各衆ごとに網の目のごとく結ばれ、衆の中心である根城に集中するようになっていた。
南武蔵の小机城を中心とした小机衆と呼ばれる軍団組織が編成されたのは、大永2年(1522)から大永4年(1524)頃である。
鶴見川と多摩川に挟まれた小机郷には、大小29の武士団が居城・館を構え、江戸城周辺の先陣及び、
旧扇谷上杉勢である太田氏勢力と対する形をとっていた。
江戸・葛西・河越をめぐる不安定な状況をいち早く、玉縄・小田原へ連絡する為、
小机城から八王子方面と、
小机城から神奈川青木城を経て玉縄城へ至る狼煙と鐘・
旗の連絡ルートが存在した。
『歴史群像シリーズ⑭真説北条五代(学研刊)より』
現況・登城記・感想等
横浜市の中心街からは、多少はずれているとは言いながら、
大都会横浜市内にこれだけの遺構が残っている中世の城址が存在するのは奇跡だと思うと同時に感激した。中でも、深くて、
大規模な空堀は見事である。空堀は、深さ12.7m、堀上部の幅12.7m、堀底の幅5mとのことである。
ちょっと残念なのは、城址を第三京浜がぶち抜いていることであるが、幸い、主要な遺構部分はよく残っている。
この程度は止むを得ないだろうな?!
また、城址公園として、よく整備されており、散策がしやすくなっているものの、余計な改変はされていないので、後北条流の城がよく分かり、
往時を偲ぶことが出来る。
遺構のよく残った城址であることは知ってはいたが、想像以上に素晴らしい城址であった。
(2007/03/21登城して)
ギャラリー
小机城址案内図 ~右図はクリックにて拡大画面に~
小机城は第三京浜国道で分断されてしまっている。
横浜市内の城 ~クリックにて拡大画面に~
横浜市内には、ほとんど残ってはいないものの、
北条氏の支城網があり、かつては多くの城・館があった。
小机城址全景
麓まで、
ぎっしり住宅地になっているが、城址の南方面の日産スタジアム周辺はまだ空き地が残っていた。
登城口
根古屋から登城すると、
城址公園は綺麗に整備され、竹林の中の小道を気持ちよく登城できる。
本丸手前の土橋② ㊧本丸手前から撮影、
㊨本丸側から撮影
本丸手前の空堀(上写真の両側の堀)
~クリックにて拡大画面に~
中心街から多少はずれているとはいえ、
横浜市内でこれだけ素晴らしい空堀を見ることが出来るとは思わなかった。まさに感激物である。
後北条築城術特有の比高二重土塁になっており、寄せ手はまず外側の低い土塁を乗り越えて堀に落ち、
改めてもう一段高い土塁を克服してからでないと曲輪に侵入できないようになっている。
㊧本丸虎口に建つ模擬冠木門、
㊨その冠木門横の小机城址石碑
本丸跡
本丸跡は広場になっており、
子供達が野球をやっていた。
本丸虎口横の土塁
本丸は土塁で囲まれている。
本丸の西側の土塁上からの眺望
城址は第三京浜で分断されている。これは、近代の堀切? それにしても、
ここに限らず役所は、貴重な史跡を道路でぶち切るのが好きだ!! まあ、この城址については、
主郭周辺の主要な遺構部分が残っているだけでもメッケモン!?
本丸から二の丸への土橋
二の丸
一応、二の丸とされているが、
資料不足の為、明確には断言できないとのこと。本丸かもしれない。
二の丸西の櫓台
二の丸西側の空堀 ~クリックにて拡大画面に~
この空堀も綺麗に整備され、
気持ちよく散策が出来る。空堀は、深さ12.7m、堀上部の幅12.7m、堀底の幅5mとのことである。右写真の正面奥の高い台上は本丸。
ここも、後北条築城術特有の比高二重土塁になっている。