信濃 林大城(松本市)

信濃守護、名門小笠原氏の本拠地

別名

金華山城

所在地

長野県松本市里山辺~入山辺

形状

山城(標高846m、比高約220m)

現状・遺構

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、石垣、空堀、堀切、土橋、標柱、説明板

満足度(10点満点)

7点

訪城日

2007/12/09

歴史等

林大城は、南北朝争乱時の功績により信濃守護となって府中(現松本)に入った小笠原貞宗が、建武年中(1334)井川城を設けて以来、 戦国時代の長時が、信濃に侵攻した武田晴信(信玄)に敗れて退去した天文19年(1550)まで約200年間の小笠原氏の本拠地であった。
その間、小笠原氏は筑摩郡及び安曇・伊那地域を中心に勢力を張り、平地の城館である井川城と山城の林城を根拠地として、 4周に順次山城群を配置して強固な防衛線を構えた。
筑摩山地の西側に突き出した尾根に構築された林城と一括される大城と小城は、狭間に大嵩崎集落を挟んで連立し、 林城の東に深く入り込む山辺の谷には桐原城・山家城(やまべじょう) を配して小県佐久地域に備え、北方は伊深城・犬甘城(いぬかいじょう)・ 平瀬城などを配して固め、諏訪伊那地方に通ずる南方の要には埴原城(はいばらじょう)を構える他、筑摩山地の西面の各所に砦を築いて、 一帯は大要塞群をなしていた。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

林大城は、名門小笠原氏の本城だけあって、実に大規模で見応えもあった。
山頂部へは、山の西先端部(金華橋傍)から非常に綺麗に整備された東城山遊歩道を登ることも出来るが、 車で入山辺公民館の南側の道を2郭下まで登って行くことも出来る。
城は典型的な連郭式山城で、頂上にある1郭を中心に3方の尾根に郭が塁段になって連なり、各尾根には多くの堀切も切られている。
1郭の広さは東西68m、南北27m余りで、周囲を土塁で囲まれている。土塁には石垣跡が多く散見されるが、 中でも東側にははっきりと残った石垣が見られる。1郭の周りは帯曲輪がしっかりと残り、特に南側はきれいな赤松林と相俟って絵になる。
私は、2郭から1郭を見上げる、また逆に1郭から2郭を見下ろす「塁段と堀切」の光景も妙に好きだ。
(2007/12/09登城して)


【余談】
NHKの風林火山の影響で、小笠原氏というと小笠原長時役の今井朋彦が思い浮かぶと同時に、同氏の消臭プラグのCMで踊る姿が思い浮かぶ。 私は、同氏の何ともいえないキャラクターが好きだ。

ギャラリー

小笠原氏城跡群略図(現地2郭下説明板より)    ~クリックにて拡大画面に~
筑摩山地の西側に突き出した尾根に構築された林城と一括される大城と小城は、 狭間に大嵩崎集落を挟んで連立し、林城の東に深く入り込む山辺の谷には桐原城・山家城(やまべじょう)を配して小県佐久地域に備え、北方は伊深城・ 犬甘城 (いぬかいじょう)・平瀬城などを配して固め、 諏訪伊那地方に通ずる南方の要には埴原城(はいばらじょう)を構える他、筑摩山地の西面の各所に砦を築いて、一帯は大要塞群をなしていた。

林大城と小城(右手前の山が林小城。奥の山が林大城)

1郭
1郭の広さは東西68m、南北27m余りで、周囲を土塁で囲まれている。

1郭周囲の土塁(土塁には石垣跡が多く散見される)

1郭東側の石垣
土塁の東側にははっきりと残った石垣が見られる。

1郭西側には「門の礎石?」が4つ

1郭南側の帯曲輪
1郭の周りは帯曲輪がしっかりと残り、特に南側はきれいな赤松林と相俟って絵になる。

1郭東側の腰曲輪

1郭東側腰郭(上写真)の南の堀切と土橋
㊧堀切と右側に土橋、 ㊨左写真の土橋
 

2郭から1郭を見上げる
私は、塁段になった曲輪跡が妙に好きで、この2郭から1郭を見上げる光景や、 下写真の1郭から2郭を見下ろす光景が非常に好きだ。
尚、1郭と2郭間(写真中央あたり)にも堀切と土橋がある。

1郭から2郭を見下ろす

3郭から2郭を
車で入山辺公民館の南側の道を、この2郭下まで登って来ることも出来る。

3郭下(西)の堀切と土橋
林大城は多くの堀切で尾根を断ち切られているが、3郭のすぐ下にも堀切を見つけた。

 

【山麓から登城】
山頂部へは、山の西先端部 (金華橋傍)から非常に綺麗に整備された東城山遊歩道を登ることも出来る。途中、薄川を挟んで対面にある桐原城址が望める。そして、 九十九折の道を10分弱で一騎駆けのような細い尾根道へと出る。
 

桐原城址(中央手前)

一騎駆けのような細い尾根道(城内側から撮影)
このような細い道が続き、塁段になった腰曲輪を経て、3郭・2郭・1郭へと着く。

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