近江 永原城(野洲市)

六角氏重臣永原氏の居城、信長が「金ケ崎の退却」や上洛の折によった

別名

上永原城

所在地

滋賀県野洲市上屋1169(妓王小学校)

形状

平城

現状・遺構

現状:妓王小学校、住宅地他
遺構等:石碑

満足度(10点満点)

0点

訪城日

2007/12/23

歴史等

永原城(ながはらじょう)は、室町時代、近江源氏の佐々木氏を祖とする永原氏の居城であった。永原氏は、近江守護観音寺城主六角氏の重臣として、 永原を根拠として野洲郡に勢力を張ったが、永禄11年(1568)織田信長の攻撃により六角氏が没落するとともに衰微する。その後、 織田信長、次いで豊臣秀吉に仕え、さらに、秀吉の甥で養子となった秀次の与力大名となった。
元亀元年(1570)、織田信長が越前の朝倉氏を攻めたとき、浅井長政に背かれて、敦賀の金ケ崎城から朽木谷の間道を越えて京都に逃げ帰り、 さらに京都から岐阜城に帰る途中、 家臣の佐久間信盛の軍勢を増強して守らせ、信長もこの城に入ったが、岐阜への道筋がいまだ危険であったことから、 10日間にわたって永原城にとどまり、近江路の帰還を断念して甲賀から千草越えにて岐阜城へ戻ったという。 その折、千草山中にて六角氏の回し者杉谷善住坊に鉄砲4挺で狙撃されるが難を逃れたという。
その後も上洛のおりに何度か宿泊したという。
江戸時代に入り、将軍の宿所として永原御殿が建てられたことにより廃城となった。
『別冊歴史読本・織田信長天下布武への道(新人物往来社刊)他参照』

現況・登城記・感想等

永原城は、ほとんど遺構は残ってないことは分かってはいたが、織田信長が「金ケ崎の退却」の折や、 上洛する時に宿泊した城ということで、近くに来ることがあれば、一度は訪れておきたいと思っていた。
城跡は、妓王小学校となっているので場所は簡単に探せるが、何せ最近の風潮で、校内にはとにかく入って行き辛い。
校内に石碑があるとのこと、その写真を撮りたくて、学校の先生でも出てこないかと、学校の周りを車で周ったが、その気配もなく諦めた。
(2007/12/23訪れて)


【発掘調査】

野暮さんのサイト『近江の城郭』 によると、2001年12月8日に妓王小学校の南東の農地(二の丸跡)の「発掘調査現地説明会」があり、 土塁や水堀等が確認されたとのことである。

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