大和 宇陀松山城(宇陀市)

宇陀三将・秋山氏が築城、その後豊臣系大名により大修築

別名

秋山城

所在地

奈良県宇陀市大宇陀区春日

形状

山城(標高470m)

現状・遺構

現状:山林
遺構等:曲輪、天守台、土塁、石垣、虎口、堀、城門、抜け穴?

満足度(10点満点)

8点

訪城日

2008/02/04

歴史等

宇陀市大宇陀区は、飛鳥時代から「阿騎野」と呼ばれる宮廷の狩場であった。
宇陀松山城は、旧名秋山城と呼び、戦国時代に「宇陀三将」と称された秋山氏が城を築き本拠地とし集落を形成した。
天正13年(1585)に秋山氏が追放された後、豊臣家配下の大名によって城の大改修と城下町の拡大整備が行われ、 町名も阿貴町から松山町と変った。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、福島正則の弟福島孝治が城主となり、大改修が加えられ、現存する城郭構造となった。
元和元年(1615)、孝治の改易にともない松山城は破却され、織田信長の次男信雄が宇陀を所領し、宇陀松山藩として藩政がはじまる。 織田氏は、山麓に「御上屋敷」や「長山屋敷」を設けた。
しかし、元禄7年(1694)家臣団の内紛に端を発して、4代目藩主信武が家臣2人を殺害のうえ自殺した為、翌8年(1695) 領地を没収され、藩主となっていた信休は減封の上、丹波柏原へ転封となり、 以後天領となった。
『「宇陀市教育委員会等によるパンフレット(道の駅宇陀路大宇陀にて入手)」、「西口関門説明板」、「柏原歴史民俗資料館展示資料」参照』

現況・登城記・感想等

今日はかつての同僚Tさんとの登城であったが、朝からあいにくの雪で、大阪・奈良間の道路は不通のため、大阪を遅めに出発。
宇陀市に近くなると周りは雪景色だったが、強行!! 「道の駅宇陀路大宇陀」にてパンフを入手し、 まずは登城口である春日神社へと行くと春日門を構成する櫓台の石垣が残っていた。
そこを通り、神社脇の登城道を1~2分行くと、杉木立の登り道へと出る。最近登城した北関東の山城と違い、間伐もされ、 枝打ちもされた綺麗な杉山である。とは言いながら、朝からの雪で道はグショグショ。
12~13分ほど登ると、櫓台らしき土塁が見え、狭い虎口へと出た。このあたりから積雪の量が増えてきた。そこから少し登って行くと、 土橋が見え、その奥には虎口、さらには土塁(土嚢)、石垣が見える。土橋の両側の空堀もなかなか見応えがある。
土橋を渡り、虎口を入って行くと一挙に積雪量が大幅UP!!それと同時に、ここからは雪に隠れながらも、雀門跡の石垣、 石段のオンパレードでワクワクしてきた。ただ、兎に角滑りやすく危険だ!
喰い違いの石段を登りきると、雪で真っ白になった本丸下の腰曲輪へと出る。ここからは周りの景色が一挙に開けてくる。 そこからさらに石段を登ると、本丸へと出る。本丸右側には天守台がある。滑らないように気をつけながら天守閣へと登った。 石碑が3つも建っていたが、どれも城とはあまり関係ないようだ。
天守台上から、東の方を見下ろすと、曲輪の向こうに大堀切が見え、その内側に虎口の石垣が見える。ここから眺めてもなかなかの迫力を感じる。 ただ、あまりの積雪量で、今回はこれで諦めた。
それにしても、奈良県に高取城以外にこれだけ石垣に覆われた素晴らしい城跡が見られるとは思わなかった。機会があれば、 雪のない時に再登城したいものだ。
帰りに折角だからと思い、春日神社にお参りに寄ったら、手水舎の奥の石垣に、「秋山城の抜け穴」というのがあった。
また、神社の西200mほどの所に、唯一の建築物遺構の西口関門がある。
(2008/02/04登城して)

ギャラリー

大宇陀の町並み
「道の駅宇陀路大宇陀」 から登城口である春日神社へは往時の名残りが残る町並みを北へ向かい約800mほど歩く。

春日門跡
春日門は、松山城下町の出入口にあたる西口関門から続く大手筋に位置する。 門跡には虎口を構成する東西2つの櫓台(写真手前と奥)が残っている。築造は16C末から17C初頭で、町人地と武家屋敷・ 城館とを分ける虎口として造られた。

㊧登城口、 ㊨杉木立の登城道
㊧春日神社の脇道を進んで行くと、㊨杉木立の登城道へと出る。最近登城した北関東の山城と違い、間伐もされ、 枝打ちもされた綺麗な杉山である。とは言いながら、朝からの雪で道はグショグショ。
 

最初に出会う櫓台?
登り始めて、12~13分ほど登ると、櫓台らしき土塁が見え、その右には虎口(堀底道)が。

上写真の右側の虎口(堀底道)
この辺りから、積雪量が増えてきて、非常に滑りやすくなった。

雀門前の虎口
堀底道を少し登って行くと土橋が見え、その奥には虎口、さらには土塁(土嚢)、石垣が見える。

虎口手前の空堀
この空堀は実にかっこよく見応えがある。

雀門跡
虎口を入って行くと一挙に積雪量が大幅UP!!それと同時に、ここからは雪に隠れながらも、雀門跡の石垣、 石段のオンパレードでワクワクしてきた。ただ、兎に角滑りやすく危険だ!

喰い違い虎口
雀門からは喰い違いになっており、その石垣がまた見応え充分である。

本丸下の腰曲輪
喰い違いの石段を登りきると、雪で真っ白になった本丸下の腰曲輪へと出る。
ここからは周りの景色が一挙に開けてくる。

腰曲輪から本丸への石段
本丸へは、右手前の石段を登り、左の方へと曲がる石段を登って行く。

本丸入口辺りから天守台を

本丸から天守台を

本丸からの眺望(大宇陀方面を)

本丸からの眺望(北東方面を)

本丸から見下ろす東側の曲輪と大堀切と虎口(門跡)
天守台上から、東の方を見下ろすと、曲輪の向こうに大堀切が見え、その内側に虎口の石垣が見える。 ここから眺めてもなかなかの迫力を感じたが、あまりの積雪量で今回はこれで諦めた。

㊧春日神社の手水舎と、㊨秋山城からの抜け穴?
㊧手水舎の左奥に石垣に穴があるが、秋山城天守閣からの抜け穴があり、その出口が、 この穴と伝えられているが、今は、途中で埋っているそうだ。
 

西口関門
福島孝治が松山城を居城とした江戸時代初期に建築された。唯一の建造物遺構で、 壁以外は全て黒く塗られていることから「黒門」とも呼ばれている。

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