太田道灌の曾孫三楽斉資正の築いた城
所在地
茨城県石岡市根古屋
形状
平山城
現状・遺構
現状:山林、畑、宅地
遺構等:曲輪、土塁、空堀、虎口、土橋、石碑、説明板
満足度(10点満点)
4点
訪城日
2008/01/30
歴史等
片野城は、文永年間(1264~1274)の頃、小田氏の一族八代将監が小田城の北の守りの砦として片岡から移り、
佐久山に築いたと伝えられる。
その後、佐久山の北にあたるこの一画は永禄9年(1566)頃、武蔵国岩槻から来て、
佐竹義重にここを預けられた太田三楽斉資正が築いたと云われる。
三楽斉はここに来てから3~4年、佐竹氏からの招きに応じて、柿岡城の梶原政景と協力し、
小田氏を国外に追ってのあとも3男資武とともに片野城にいたが、天正19年(1591)の秋、69歳で病死した。
その後、石塚城(常北町)の石塚源一郎義国が城主となったが、やがて徳川の世となり、慶長7年(1602)に佐竹氏と共に秋田に遷り、
次の領主滝川氏が城を廃されるまで4代に及んでここにいた。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
片野城は智将?策士?太田三楽斉資正の城ということで、ちょっと興味があった。
城跡の場所は結構分かりにくい。「サイト・戦国時代の城」
のお陰で無事2郭と3郭間の堀切跡へ到着。
まずは、石碑と説明板の建つ虎口から2郭へと入城。2郭は畑になっているが、虎口の両側の土塁はしっかり残っている。また、
それほど高い山ではないが、眺望はなかなかのものだ。
2郭と1郭の間にも堀切があり、土橋が架かっている。土橋を渡って1郭へ進むとぎっしりと植林された杉の下枝が行く手を阻む。
この城は典型的な連郭式城郭のようで、この先にも、かなり遺構が残っているようであるが、ここでギブアップ。
次に、南側の郭を見に戻ったが、この辺も土塁がよく残っていた。ただ、時間の関係もあり、これで引き返した。
当初想定していたよりも遥かに大規模で、遺構もよく残っている城址のようだ。機会があったら、再登城し、じっくり廻りたい城跡である。
(2008/01/30登城して)
ギャラリー
2郭と3郭間の堀切道
城跡の場所は結構分かりにくい。「サイト・
戦国時代の城」のお陰で無事2郭と3郭間の堀切跡へ到着。
この堀切道の最も高い所に表紙写真にある石碑と説明板があり、そこから2郭へと入城出来るが、暗くて説明板や石碑は非常に見逃しやすい。
2郭虎口前に建つ石碑
表紙写真の左側にこの石碑が建っているが、暗くて見逃しやすい。
2郭
2郭は畑になっている。正面奥の林の中が1郭。
2郭の土塁
2郭(虎口の両側)の土塁は結構良好に残っている。ただ、この山積みにされた丸太がなあ!
2郭からの眺望
せいぜい比高20m程度の山であるが、眺望はなかなかのもので、まさに城址だと実感。
2郭と1郭間の土橋
土橋奥が1郭への虎口となり、左側の土塁は良好に残っている。また、右側の土塁は櫓でも建っていたのか、
幅も広くて高い。
2郭と1郭間の堀切(上写真右側の堀)
笹や木々がかなり生え、写真では見辛いが、この堀切も良好な形で残り、規模も結構大きい。
1郭
1郭には杉がぎっしりと植林されているが、写真左にわずかに見える土塁とともに、良好に残る。
杉の下枝が行く手を阻む
土橋を渡って1郭へ進むとぎっしりと植林された杉の下枝が行く手を阻む。下枝のトンネルは高さ1mもない。
這って進もうかとも考えたが、かなりの距離である。
この城は典型的な連郭式城郭のようで、この先にも、かなり遺構が残っているようであるが、ここでギブアップ。
せめて通り道くらい何とかならないものだろうか?