発掘調査中の本丸跡
常陸の名門小田氏の居城、北畠親房が神皇正統記を執筆した城としても有名
所在地
茨城県つくば市小田
【行き方】
国道125号「小田十字路」信号から約500m北上した信号を左折し、そのまま道なりに進むと道路が突き当たり、正面が小田城跡。
形状
平城
現状・遺構等
遺構等:曲輪、土塁、堀、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2008/01/30
歴史等
小田氏は小田城歴代の主として、常陸南部に勢力を持った一族である。同氏の祖、八田知家は源頼朝の信任が厚く、
最初の常陸守護に任じられた。建久4年(1193)には多気大掾(たけだいじょう)氏を失脚させ、常陸における地位を安定させた。しかし、
その安定期も短く、北条氏の進出により所領が縮小し、守護職も正和4年(1315)までには完全に失ったようである。尚、
小田氏が小田を本拠とする時期は、初代の八田知家から、或いは小田を名乗りはじめる4代時知からなどの諸説がある。
勢力回復を目指す7代治久は、元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡時に後醍醐天皇の建武新政府に参加し、南北朝分裂時には南朝方についた。
暦応元年(1338)に南朝方の重臣北畠親房を迎えたことにより、小田城は関東における南朝方の一大拠点となった。親房の「神皇正統記」
「職原抄」は、この時に執筆された。しかし、翌年(1339)から北朝方の高師冬に攻撃を受け、同4年(1341)に治久は降伏し、
北朝方に従い、親房は関城へ移った。
戦国時代になると、14代政治は再び勢力を拡大させ、江戸氏・大掾氏・結城氏などと戦った。15代小田氏治は佐竹氏、結城氏などに攻められ、
小田城は何度も落城するが、その都度、土浦城へ逃れ奪還を繰り返した。
しかし、永禄12年(1569)の佐竹氏との手這坂(てばいざか)の合戦での敗走以後は、それも叶わなかった。
佐竹氏は梶原政景を小田城代として守らせた。政景により小田城は大規模に改修された。
しかし、慶長7年(1602)に佐竹氏は秋田へ国替えされ、小田城も廃城となった。その後は一時幕府領となり陣屋が置かれたこともあった。
小田城は、本丸を中心に三重の塀と土塁に囲まれた平城で、約21ヘクタールに及ぶ。本丸部分の約2ヘクタール程を八田氏の居館として出発し、
次第に拡大強化された。南北朝に入ってから、居館から防御のための城郭へと転化した。戦国期の度重なる戦乱の中で戦闘用に強化された。
更に梶原政景によって最終的に改修され、現在知りうる姿になって完成する。
『「現地説明板」、「現地パンフレット」より』
現況・登城記・感想等
小田城は中世の城郭としては珍しい真っ平らな平城である。その城域は約21haと広大なものである。
かなりの部分が宅地等の中に埋もれてしまっているものの、本丸およびその周りに残る城域は、それでも大変な広さである。その為、
茫漠として捕えどころがない印象だ。
発掘調査中で、堀や土塁などがかなり復元されてきているが、まだまだ2~3年は掛かるのでは?調査終了後には、是非再登城したいものだ。
(2008/01/30登城して)
ギャラリー
鐘撞堂と涼台
右手前が鐘撞堂、左空堀奥の小山が涼台。堀の復元は着々と進んでいるようだ。
鐘撞堂上の㊧巨大な五輪塔と㊨フェンス囲い内の五輪塔と石塔
巨大な五輪塔だが、文字も刻まれてなく、誰の五輪塔なのかは不明である。
本丸内は発掘調査中
㊧は鐘撞堂上から撮影、奥の小山は涼台。
涼台
涼台上の石碑群
涼台には「城址碑」や「神皇正統記起稿之地の石碑」など、やたらと建てられている。
涼台上から南西の堀と土塁(右側)
昨日の雨のためか、堀には水がたっぷりと溜まっていた。
南東の堀と涼台
本丸を突き抜いていた廃線路
従来、一番上の図のようにサイクリングロードが本丸を斜めに撞きぬき、真っ二つになっていたようだ。今は、
本丸南部を迂回しているようだが、こんな所にサイクリングロードなんているか??