小田氏の祖八田知家の子時知が柿岡氏を名乗り居城
所在地
茨城県石岡市2159-2柿岡小学校一帯
柿岡小学校:TEL0299-43-0049
形状
平山城
現状・遺構
現状:柿岡小学校他
遺構等:土塁、石碑、説明板
満足度(10点満点)
2点
訪城日
2008/01/30
歴史等
源頼朝が鎌倉幕府を開いた頃、常陸守護職に補せられた八田知家(小田氏の祖)が、その子小田時知(時家とも云う)
をここに置いたと云われる。それから後、代々柿岡氏を称え片野城と共に、
この地方を支配していた。
戦国末期には、梶原政景の居城となったが、天正元年(1573)小田氏治が太田三楽斉父子に小田城を攻められて敗退するや、
政景は小田城に還り、
柿岡城には真壁房幹が入った。
その後、文禄4年(1595)の秋から長倉義興が6年間居住したが、慶長5年(1600)に急死した。
その後、国分盛重に代ったが、徳川になってから後、柳川立花氏の領地となり、
稲葉正勝の領地を経て、天領として代官の支配となり明治維新まで続いた。
『現地説明板他より』
現況・登城記・感想等
柿岡城址には柿岡小学校や高齢者センターなど建っており、石碑と案内板が、小学校の校門のすぐ内側にある。
昨今の世相から、どうも小・中学校は苦手だ。石碑や案内板は、せめて校門の外側に設置してもらえないものだろうか?今日も、
丁度休み時間でガキ(失礼)がいっぱい寄ってくるし・・・。かといって、ちょっと写真を撮るだけで、職員室に行くというのもなあ。第一、
職員室の場所がよく分からないじゃないか!?(苦笑)
遺構は、小学校の西側に土塁が残るだけであるが、高台の立地から、往時はここに城があったことを思い起こさせてくれるかも?
(2008/01/30登城して)
ギャラリー
校内への坂道
坂道を登り切った所に校門があり、その右奥に表紙写真の説明板と石碑がある。
土塁