一郷山城と共に平井城の西方を固める城
別名
多比良城
所在地
群馬県多野郡吉井町多比良2297~2300
(普賢寺:吉井町多比良2282、TEL027-387-4583)の裏(北)150mほどの所
形状
平山城(台城)
現状・遺構
現状:野原、田園
遺構等:曲輪、土塁、堀、碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2008/01/17
歴史等
新堀城は関東管領山内上杉氏の本拠平井城を本城とし、
また西方の固めとして一郷山城と共に別城一郭をなしていた。
さらに瀬戸城-中ノ原城-平井金山城-
平井城という堅固な城を形成していた。
永禄6年(1563)2月15日武田信玄に攻められて焼け落ちた。城主は多比良友定で長野業政とは従兄弟になる。
新堀城は上杉家の宝物を収蔵しており武田にさらわれては末代の恥となると、
宝物を焼き捨て子女を自害させ城主多比良友定は割腹して果てたという。
しかし現地説明板によると、「多比良友定は天正18年(1590)3月25日、豊臣秀吉の小田原征伐の折り、
上杉景勝の先鋒藤田信吉に降り廃城となった。」とあり、友定は自害せず生き延びたのか、或いは先代と同名を名乗ったのかもしれない。
城は、東は土合川、西は杉井戸川に囲まれた北にのびる舌状台地の上にあり、土合川からの高低差は約50mある。城の広さは、南北250m、
東西200mで、中央の本丸は南北90m、東西80mのほぼ方形である。さらに、東に堀を隔てて、東曲輪がある。南にも堀を隔てて、
南曲輪があり、以南は城が腰曲輪に変わり、さらにその下3mに狭い腰曲輪がある。
『「吉井町ホームページ」、
「現地説明板」参照』
現況・登城記・感想等
新堀城は、普賢寺の裏150mほどの所に城址碑と説明板があり、野原と畑になっている。
地形をよく見ると、台地上にあり、かなり埋められて浅くなっているようだが堀跡や土塁跡も確認できる。
少し整備されたら、それなりに見応えのある城址になるかもしれない。
説明板によると、「平井城の西方の固めとして一郷山城と共に別城一郭をなしていた」とあるが、一郷山城とはあまりにも離れており、
一郭とはとても思えないが?
(2008/01/17登城して)
ギャラリー
縄張図(一郷山城展望台展示より) ~クリックにて拡大画面に~
本丸と本丸東側の堀跡
地形をよく見ると、台地上にあり、ここに城が築かれていたことも納得できる。本丸東側の堀跡は、
今は道路となっている。
本丸南側の堀跡
今は、埋められて浅くはなっているが、この堀は、幅が約20mほどはあろう。