常陸 志筑城(かすみがうら市)

志筑小学校校門脇の説明板

源頼朝の家臣下川辺氏により築城、江戸期には本堂氏の陣屋が置かれた

別名

志筑陣屋(江戸時代)

所在地

茨城県かすみがうら市中志筑1037志筑小学校
志筑小学校:TEL0299-23-4508

形状

平山城

現状・遺構等

現状:志筑小学校、宅地、竹薮
遺構等:曲輪、土塁、堀、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2008/01/30

歴史等

志筑城(しづくじょう)は、鎌倉時代 源頼朝の家臣下川辺政義(後に益戸氏)が、養和元年(1181) 頼朝に叛いた浮島の信太義広を討ち、その功により茨城南郡の地頭となり、この地に城を築いたのに始まる。
南北朝時代、5代の顕助・国行父子は小田城主治久と共に南朝方に属し、 北朝方の石岡の大掾(だいじょう) 高幹としばしば戦いを挑み、半年間も戦闘を続けたが、興国2年(1341)11月、小田城落城の報を聞き、 翌日6代国行は城を捨てて一族の小山氏のもとへ走り、その後も南朝方のために忠勤を励んだという。
その後、廃城になっていたが、慶長7年(1603)佐竹氏の国替えに伴い、出羽国(秋田県千畑町) より当地へ移封となった本堂茂親が志筑藩の領主となって、正保2年(1645)、 ここに陣屋を構えて廃藩置県まで本堂氏12代の居城となっていた。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

志筑城跡は志筑小学校となり、校門の横に説明板と石碑が建っている。
小学校の周りを廻って見ると、小学校は高台にあり、段曲輪や土塁があり、往時はここに城があったことを偲ばせてくれる。
また、小学校の西側にある広大な竹薮にはかなりの高さの切岸があり、堀や土塁跡や堀切と思われるような道がある。
(2008/01/30登城して)

ギャラリー

小学校の周りの土塁

北東部の腰曲輪跡

竹薮内の、㊧堀跡?と㊨切岸
右写真はあまりにも藪が深く、暗くて分かりにくいが、奥の方に結構高い切岸が見える。
 

㊧堀切?、㊨櫓台?
㊧竹薮の南西部にこのような堀切のような地形があり、㊨その城内側の土塁上は特に高くて幅も広い。 櫓でもあったのだろうかと思えてしまう。
 

城南西川下の池
この池は、水堀としての役目もしたことだろう!?

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コメント

清水(2012/04/18)

懐かしく写真見ましたよ、規模は小さく見所の無い城跡ですが、府中城を中心とする周囲に点在する城ですねでも 幕末には 新撰組で有名な京都油小路で斬殺された伊藤甲太郎、弟の鈴木三樹三郎 兄弟の故郷で、弟は新政府の役人を経て晩年は石岡の地で過ごしました、墓は石岡の東陽時にあります、また見に行きたいお城跡です。

タクジロー(2012/04/20)

清水さま
当サイトへのご訪問とコメントを有難うございます。
伊藤甲子太郎・鈴木三樹三郎兄弟の故郷とは知りませんでした。
城跡も、あまり整備されてはいませんが、遺構もそれなりに残っていたのに、登城前には、全く期待していなかったので、ほっとしたのを憶えています。
またの、ご訪問とコメントをお待ち申し上げます。

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