北畠親房の子顕能が築いた館、8代にわたる北畠氏の居城
別名
多気御所
所在地
三重県津市美杉町上多気(北畠神社)
北畠神社:上多気1148、TEL:059-275-0615
形状
館
現状・遺構
現状:北畠神社
遺構等:庭園、建物跡、説明板
満足度(10点満点)
3点
訪城日
2008/05/06
歴史等
南北朝から戦国時代、この多気の地は伊勢国司であり大名であった北畠氏の本拠地であった。
その中心が多気のほぼ中央に位置する北畠氏館と詰城及びその背後の山頂にある霧山城からなる北畠氏城館である。
南朝方の最も有力な公卿であった北畠親房の三男の伊勢国司顕能が、建武三年・延元元年(1336)親房と共に入国すると、
伊勢地方に南朝方の城砦が設けられた。
しかし、北朝方足利氏にたびたび攻められ、康永元年・興国3年(1342)頃、顕能は多気に移り城館を築いたと言われる。
両朝統一の後、北畠氏はこの地方の大豪族として勢威を振い8代続いたが、天正4年(1576)織田信長に攻撃され落城した。
『「霧山城跡本丸跡説明板」、「北畠神社内説明板」参照』
現況・登城記・感想等
北畠氏館跡(北畠神社)は山あいの鄙びた地にある。
北畠氏館のあった多気の地は、周りを山に囲まれ7つの峠を越えないと入ってこれない要害の地にあり、
往時は3千戸もの家が建ち大いに栄えていたという。逆に、その為、現在も交通の便が非常に悪く、町は寂れていっているとのことである。
しかし、時間がゆったり流れているような様子は実に好ましいとも云えるのでは? 尤も、たまに来たから、
こんな勝手な事が言えるのかもしれないが・・・(申し訳ありません)。
館跡の遺構は庭園だけとも言えるが、発掘調査が行われ、多くの石垣や建物礎石が見付かったとのことである。その石垣は、
城館で使われた石垣としては日本最古のものだそうで、しかも長く続く壮大なものだそうだ。
また、造園家としても有名な室町幕府管領細川高国作の庭園は信長に破壊された時にも残ったもので、曲水池泉の鑑賞式庭園というのだそうだ。
「米」字形の池と石による枯山水からなり、今では、庭の中を廻れる回遊式にもなっている。庭園の全体的な景観は素朴であると同時に豪放で、
築山に聳え立つ杉の大木が非常に印象的だ。
(2008/05/06登城して)
【チョット一言だけ】
津市美杉町というよりも、どう考えても「美杉村」と言った方が馴染み深い。平成の大合併によって、地名が訳分からなくなっているが、
ここもその代表的な所だ。
ギャラリー
北畠氏館、北畠氏館詰城、
霧山城の図
(北畠神社西側入口の説明板より)
北畠氏城館は、「北畠氏館」「北畠氏館詰城」
「霧山城」
からなる。館跡は、北畠神社境内を中心に西を山裾、それ以外を川で囲まれた場所にある。詰城は、
館跡の裏山の尾根にあり、館跡との比高差は約80mある。霧山城跡は、標高610mあり、
館跡から比高差約240mの山頂に位置する。
北畠氏館と霧山城の航空写真
(北畠神社西側入口の説明板より)
庭園 ~両写真共クリックにて拡大画面に~
庭園は造園家としても有名な室町幕府管領細川高国作で、信長に破壊された時にも残ったもので、
曲水池泉の鑑賞式庭園というのだそうだ。「米」字形の池と石による枯山水からなり、今では、庭の中を廻れる回遊式にもなっている。
庭園の全体的な景観は素朴であると同時に豪放で、築山に聳え立つ杉の大木(右写真)が非常に印象的だ。
発掘調査で現れた石垣
㊧平成9年の第4次発掘調査では、長さ15m以上、高さ3mの石垣が見付かった。この石垣は、
15世紀後半のもので、中世の城館で使われた石垣としては、日本最古のものである。
その後行われたレーダー調査では石垣の長さは80mに及ぶ壮大なものだった可能性があるとのことである。
㊨北畠氏館では、上段と中段の境に石垣が築かれていたが、高さ約2.6m、長さ約28mにわたって確認された。
総延長は約90mと想定される。この部分は敵から攻められ易い場所でもないことから、館上段を特別な場所として、
より厳かに見せるためであろうと考えられている。
建物跡とその発掘調査写真
館跡では、礎石建物が数棟確認されており、ここでも礎石建物跡(赤線部分)が見付かっている。