陸中 藤原氏館・岩谷堂城(奥州市江刺区)

館山史跡公園として整備・保存されている城跡

藤原経清・清衛の居館、江戸期には伊達藩最北端の城として岩城氏が居城

所在地

岩手県奥州市江刺区岩谷堂、館山史跡公園

形状

山城(比高差約70m)

現状・遺構

現状:館山史跡公園、岩谷堂高校など
遺構等:曲輪、土塁、空堀、堀切、石碑、説明板

満足度(10点満点)

4点

訪城日

2008/05/18

歴史等

この地は、古来御館山と呼ばれ、古代からこの地方を支配する豪族の居館や砦が置かれ、 平安時代末期には藤原経清とその子清衛父子が砦館としたと伝えられている。
経清は田原ノ藤太秀郷の子孫といわれ、陸奥の国司に従って奥州に下り、初の宮城県亘理地方を支配して亘理権大夫と呼ばれたが、後に、 俘囚の長と言われた大豪族安倍頼時の娘婿となって江刺郡に住み、この地で清衛が生まれた。
経清は、安倍氏征討のための「前九年の役」が始まると、初め朝廷軍の源頼義に従ったが、中途から妻の父である安倍頼時に味方して、源頼義・ 義家父子と清原武則の連合軍と戦い、厨川柵で敗死し、経清の妻は清衛を伴って、敵将清原武貞に再嫁した。
清衛は、後に清原氏の内訌から起こった「後三年の役」で、源義家の援けを得て勝ち残り、この地に戻って奥6郡の主となった。
康和年中(1099年頃)、清衛は平泉に居を移し、黄金文化を築いた。
平泉藤原氏滅亡後、この地は源氏の重臣葛西氏の所領となり、その家臣江刺氏が入城した。
戦国時代以降は、伊達氏の支配下に置かれ、以来幕末まで伊達の家臣岩城氏の居城となった。
『現地説明板2箇所より抜粋』

現況・登城記・感想等

岩谷堂城跡は館山史跡公園としてよく整備され市民の憩いの場となっているようだ。
本丸跡へと続く石畳の道を登るとすぐ虎口が見えて来る。虎口の両側の土塁が実に良好に残っており、見応えがある。
本丸跡は八幡神社の境内で、樹齢800年以上といわれるイチョウの巨木が立っている。また、藤原経清・ 清衡父子を顕彰する二清院が建立されている。本丸の広さは90m四方程度の広さである。
本丸の南西部には中の郭があり、展望台が設置されている。本丸と中の郭の間の堀切もなかなか見応えがある。
中の郭の先(下)は二の丸となっているが、今は岩谷堂高校グランドになっている。
(2008/05/18登城して)

ギャラリー

本丸虎口への石畳の道
石畳の道を登るとすぐ虎口が見えて来る。

本丸虎口横の土塁
虎口の両側の土塁が実に良好に残っており、見応えがある。

本丸虎口を土塁上から

㊧樹齢800年以上のイチョウ、㊨二清院
本丸跡は八幡神社の境内で、樹齢800年以上といわれるイチョウの巨木が立っている。また、藤原経清・ 清衡父子を顕彰する二清院が建立されている。本丸の広さは90m四方程度の広さである。
 

本丸を囲む堀
本丸下には堀が残っていた。往時は本丸を囲んでいたのではと思われる。 形状からして水堀であったのではと思われる。

堀切(本丸・中の郭間)
車で城址に着いて最初に気付いたのがこの堀切だったが、結構見応えがある。

中の郭
中の郭は、草茫々で、道の所以外はチョット! 展望台からは眼下に二の丸跡が・・・。

二の丸
中の郭跡の展望台から二の丸跡が・・・。二の丸は今は岩谷堂高校グランドになっている。

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