甲斐 谷戸城(北杜市)

一ノ郭北東部土塁上から二ノ郭を

甲斐源氏の祖「逸見清光」の居城

別名

逸見山城、茶臼山

所在地

山梨県北杜市大泉町谷戸、谷戸城ふるさと歴史館の裏山
谷戸城ふるさと歴史館:谷戸2414、電話0551-20-5505
駐車場は城址の南北と歴史館にある

形状

平山城(標高862m、比高30m)

現状・遺構等

現状:山林(国指定史跡)
遺構等:曲輪、土塁、空堀、竪堀、虎口、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2009/11/03

歴史等

谷戸(やと)城は、甲斐源氏の祖といわれる新羅三郎義光の曾孫・逸見(へみ)清光の居城と伝えられる。
甲斐源氏は、常陸国に住した源義清・清光親子が、大治5年(1130)に清光の濫行を理由に常陸国司に訴えられ、 甲斐国に配流となったことに端を発する。そして、甲斐国に入部した義清は平塩岡(市川三郷町)に館を構え、 清光は逸見の地に土着して谷戸城を築き、逸見冠者を名乗ったとされるが、現在までの谷戸城跡の発掘からは、 それを直接跡付ける成果は得られていない。
当地は、奈良朝の頃から官牧として「甲斐の黒駒」が飼われていた高原で、甲信国境にあって、つねに外敵の侵入を防ぐ最前線に位置していた。 清光は、この雄大な八ヶ岳山麓を舞台に騎馬軍団の増強を図った。
源平争乱の頃は、清光の孫・有義が守備していた。「吾妻鏡」治承4年(1180)9月15日条に有義の父(清光の子)武田信義と長兄 (清光の孫)一条忠頼が率いる武田軍が信濃伊那郡の平家を滅亡させた際に宿営したという記録があり、宿営中に「石橋山の合戦」 で敗れた伊豆の北条時政が援軍を求めて「逸見山」を訪ねたという記事があり、谷戸城がこの「逸見山」に比定されているが、若神子城 (北杜市須玉町)であるという説もあるという。
やがて甲斐武田の血脈をひく豪族が甲斐全土に権力を張りはじめ、内乱が各地で頻発した永正年間(1504~20)、 谷戸城は信濃から侵攻してきた跡部・大井・平賀・海野などの地方豪族の襲撃を受けたが、武田信虎が甲斐国を統一して以降は、 北信攻略の中継点として武田軍が活用した。
天正10年(1582)武田氏滅亡後、いわゆる「天正壬午の戦い」において、後北条軍は信濃側から甲斐へ攻め込み若神子城 (本陣)と谷戸城を占拠して、さきに入国し新府城に拠った徳川家康と一戦を交えようとしたが、 家康に服従した旧武田軍の奇襲で後北条軍は大敗して信濃へ敗走した。
以来、谷戸城は帰農した逸見衆に保護された。
『「谷内城ふるさと歴史館パンフ」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「日本城郭大系8(新人物往来社刊)」参照』

現況・登城記・感想等

谷戸城址は最近整備されたようで、山麓に新しくて綺麗な歴史館が建てられている。勿論、城跡も綺麗に整備され、 発掘復元された遺構が見事に残されている。このように、あるがままに整備されているのは嬉しいかぎりだ。
谷戸城の郭配置は山頂部の一ノ郭を中心に同心円状に配されている。
一ノ郭は東西30m、南北40mほどの三角形に近い形で、高さ1m前後(高い部分は2mほど)の土塁に囲まれ、 土塁上から眺める富士山や八ヶ岳が見事だ。
一ノ郭の周囲を二ノ郭(東側)と三ノ郭(西側)が取り囲んでいる。二ノ郭と三ノ郭も高さ1m前後(高い部分は2mほど) の土塁と空堀で囲まれているが、何故か空堀が土塁の内側に掘られている。
二ノ郭と三ノ郭周囲には帯郭があるが、帯郭を取り囲む土塁は高さ50cmほどの低いものだ。
帯郭の外側には四ノ郭と五ノ郭もあり、山麓には六ノ郭もある。
また他にも、低いが長く続く土塁や空堀があり、竪堀もある。
平安末期から鎌倉時代の城址としては、かなり規模も大きい方で、土塁や空堀遺構も良好に残る見応え充分な城址である。
(2009/11/03登城して)

ギャラリー

谷戸城縄張略図(谷戸城ふるさと歴史館展示より)

城址全景
北の方から谷戸城址を眺めたもので、城址の右(北西)に「谷戸城ふるさと歴史館」が建てられている。 右奥には南アルプス(右が甲斐駒ケ岳、中央奥に山頂部分だけポツンと見えるのが北岳、左が鳳凰山)の山並みがくっきりと見える。

㊧谷戸城ふるさと歴史館、 ㊨城址碑
谷戸城址は最近整備されたようで、山麓に新しくて綺麗な歴史館が建てられ、歴史館の脇(南) には城址碑がたっている。碑の後ろに見えるのは甲斐駒ケ岳。
 

空堀
歴史館の前から入城すると、左手に空堀が確認できる。

四ノ郭
入城して、しばらく登って行くと左手に低い土塁が見られ、そして四ノ郭へ出る。そして正面に帯曲輪と二ノ郭・ 三ノ郭の土塁が見えてくる。四の郭は外縁を低い土塁で囲まれているが、空堀は掘られていない。また、 表土のすぐ下から多量の縄文土器が出土したことから、郭としてほとんど造成されていなかったと考えられる。 造成中に放棄されたか臨時に整備された郭である可能性が考えられる。

帯曲輪への虎口
四ノ郭から帯郭への虎口は、両側の低い土塁を見てみると喰い違い虎口になっているのが分かる。 左奥に見えるのが二ノ郭・三ノ郭への虎口。

帯郭
帯郭は二ノ郭への侵入を防ぐとともに、四ノ郭と五ノ郭を繋ぐ役割も担っていた。 帯郭が巡っている北から東にかけて、二ノ郭の土塁(写真右奥は二ノ郭北側の土塁)も高くなっている。

帯郭西側と二ノ郭・ 三ノ郭の北虎口
手前右が帯郭の西側に当たるが、ここには三ノ郭の土塁裾を斜面と分断する空堀が掘られていたそうで、 写真でも分かるように、今でも僅かに低くなっている。また、二の郭の土塁裾にも長さ5mほどの短い空堀が見つかっているそうだ。 中央上奥が二ノ郭・三ノ郭への虎口であり、両側の空堀に架かる土橋(写真の坂道)を渡って入って行くようになっていたようだ。

二ノ郭・ 三ノ郭の北虎口と一ノ郭土塁
二ノ郭・三ノ郭の北虎口も喰い違いになっている。正面奥は一ノ郭の土塁。

二ノ郭・ 三ノ郭の北虎口を内側から
二の郭(手前)と三の郭(奥)の空堀が接する場所を掘り残し、空堀を渡る土橋としている。土橋の幅は2. 3mで、橋の上から堀底までは1.1mの深さである。空堀は、橋の両側で若干ずれており、喰い違い虎口の構造である。後世、虎口西側(奥) は土塁を崩して平場として造成されていた。また、北側に眺望の開ける場所であることから、物見の場所として利用されていたと考えられる。

二ノ郭
二ノ郭は東西約30m、南北約60mほどである。この写真は虎口から撮ったものであるが、 何故か内側に空堀が掘られている。不思議だ?

三ノ郭
二ノ郭とともに一ノ郭を囲む郭であるが、こちらは郭と言える平坦部は狭く、 幅15mほどの帯状の平坦地であり、一の郭の西側の帯郭といった性格が強い。二ノ郭が一ノ郭と同じ高さであるのに対し、 この三ノ郭は一段下がっている。また、三の郭の土塁内側にも空堀が掘られている。

一ノ郭東虎口
谷戸城は、虎口のほとんどが喰い違い虎口になっているが、一ノ郭の東虎口に面する土塁には喰い違いがない。 両側を高い土塁(約2m)に挟まれた構造から、土塁に接して柱を建てた門を配置していたと想定される。しかし、 発掘調査では礎石のような石は出土したものの、確実な門の痕跡は発見されなかった。

一ノ郭
一ノ郭は谷戸城の中心となる郭で、最高所にある。東西30m、南北40mほどの三角形に近い形で、 高さ1m前後(高い部分は2mほど)の土塁に囲まれ、土塁を切る形で虎口が東(上写真)と北西に設けられている。北西虎口(写真右) は喰い違い虎口になっている。郭の北側に集中して直径20cmほどの小さい穴が30基近く発見されたが、 建物跡を復元できる配列にはならなかった。柵のようなものが設置されていたと考えられる。

一ノ郭南側土塁上から富士山を
一ノ郭の南側の土塁上からは富士山がよく見える。

一ノ郭南西角の土塁上から八ヶ岳を
一ノ郭南西角の土塁上からは八ヶ岳がよく見える。写真左下は三ノ郭南西部の土塁。

五ノ郭
南東帯郭の一段下に五ノ郭があるが、案内板の矢印方向が全くデタラメで、探すのに手間取った。 五ノ郭は最も東にある郭で、空堀はなく、土塁も明確には残っていない。地表から20cmほどの深さで硬化面が確認されたことから、 城として使われた時に踏み固められたものと考えられる。また、この郭からは、内耳土器やかわらけなどが出土した。

北斜面と東斜面の土塁
北斜面から東斜面にかけて、低いが長~い土塁が続いている。 四ノ郭を囲む土塁の東と北は傾斜した平場→土塁→傾斜した平場→空堀(北空堀)→平場(北帯郭)→急斜面と続いている。 平場はほとんど造成せずに自然地形を活かしたものと考えられる。

北空堀
また、北斜面から東斜面にかけては長~い空堀もめぐっている。 この空堀は北東側の防御を担う施設であるとともに、通路であったことが空堀の北の始点の発見で確認された。南へたどると斜面を下りる竪堀 (北竪堀)へと繋がって終わっている。

南竪堀
竪堀は、北竪堀と搦手側とこの南竪堀がある。この南竪堀は城の東側を流れる東衣川へと落ちていっている。 東衣川は城の外堀の役割を果たしていたと考えられる。

六ノ郭
城址の西側山麓には六ノ郭(道路左側)があったという。この道路も堀跡であったと考えられる。

出丸
城址南西部山麓には出丸があり、樹齢約200年、樹高29.3m、目通り直径4. 3mのモミの木が聳え立っている。
 

搦手口

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