信濃 鷲尾城(千曲市)

山頂の主郭西側に残る石垣

倉科氏の居城、主郭の布積み石垣が良好に残る山城

所在地

長野県千曲市倉科
【行き方】
屋代から県道392号線で倉科方面へ東進し、東部老人福祉センターを過ぎて約200mを左折するとすぐ万葉歌碑がいっぱい立っている。 ここが登城口。
約100m手前県道392号線沿いに「倉科の里広場」の駐車場(5台ほど駐車可)がある。
東部老人福祉センター:倉科76番地、電話026-272-5818

形状

山城(標高550m、比高約150m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:郭、土塁、石垣、堀切、竪堀、城址碑、説明板

満足度

★★★★☆

訪城日

2009/11/23

歴史等

鷲尾城についての詳しい歴史は不明で、倉科氏の居城であったと伝わるのみである。
現在の松代・千曲地方には同様の山城がいくつかあり、それらを総括したのが尾根伝いの鞍骨山山頂に築かれた清野氏の本拠・鞍骨城である。
鞍骨城を中心的な城郭とし、また詰めの城としていたと思われ、鷲尾城は鞍骨城の外郭の役目を果たしていたと思われる。

【以下、現地説明板より】
この城は、山頂に築かれた中世(15~16)の山城である。
本郭は東西28m、南北21mほどの不整楕円形をしており、外壁は板状の石を小口積みにした高さ4mほどの石垣となっている。
南側に入口を設け、また南側から西側にかけて、犬走り状の平坦面を設けている。
東側には、高さ3mほどの土塁と、深い二条の堀切を設け、東西28m、南北12mの一郭脇曲輪 があり、さらに三条の堀切を設けている。 こうした高い石垣によって本郭を築く、近世城郭のような山城は他に例がないものである。築城の由来について知るところでないが、 倉科氏によって築かれたと伝えられている。
倉科史跡保存会、更埴市教育委員会

現況・登城記・感想等

岩だらけの急峻な山道をひたすら登ること約15分、見上げると、 木々の間から信州特有の平べったい割石による布積みの石垣が見えてくる(^^)。
この石垣に使われている石は*結晶片岩の一種で緑泥片岩(通称青石)といい、 信州の山城以外では、和歌山城徳島城の石垣や小倉城 (埼玉県ときがわ町)でも見かける。
この高く反り返るような石垣は、真田大好き人間の私が、5年半前に松尾古城に登城して、 初めてこの独特の石垣に出逢い感激したのを思い出させてくれる。
登りはじめて最初に出逢うこの石垣で囲まれた郭が主郭で、往時は総石垣であったようで、郭周囲には石垣や崩れ落ちた石が多く確認できる。
鷲尾城は、倉科将軍塚古墳も1つの郭として取り入れた4つの郭が連続する典型的な連郭式山城である。
それぞれの郭は、中世山城としてはかなり広く、また各郭を断ち切る堀切は実に大規模で、二重堀切、 三重堀切まであり実に見応えのある城址である。
尚、この城址の一番奥にある堀切のところから、以前から一度は登城したいと思っている「鞍骨城」までは1時間ほどで行けるらしいが、 今回は家内と二人での登城。おまけに登城口から主郭まで、 幾重にも積もった落ち葉で滑りやすい急坂があまりにも続いた為か家内が膝を痛めたようで断念!
それに「鞍骨城」はやたらと熊が出没するようだし・・・。でも、「いつかは行きたい鞍骨城」である。
(2009/11/23登城して)

【結晶片岩】
結晶片岩とは、いろいろな岩石が高い圧力によって変成を受けた岩石で、「緑泥片岩」や「石墨片岩」などがある。
中央構造線の南側に関東山地から九州東部まで広く分布する。
関東山地の秩父盆地では長瀞渓谷の岩畳、四国中央部の大歩危、小歩危など、特異な景観をなすことで知られる。
板状に割れやすいので、中世に流行した板碑造立などを除いて石材として利用されることは少ないが、その中で、緑泥片岩は「紀州の青石」 として有名である。
和歌山城周辺では紀ノ川南岸以南に分布しており、 和歌山城の築城初期から使用されている。また、徳島城にも使われている。
信州特有の平べったい割石による布積みの石垣の石も緑泥片岩のようである。

ギャラリー

全景
比高僅か150m強程度で、写真右の方にある大日堂のところから攻めるのであるが、 これがなかなかのものである。

登城口
登城口は大日堂(写真やや左上に見える)の下にある万葉歌碑がいっぱい立っているところから登る。 案内板には「登り口30分」とあるが、急坂で結構きついものの、主郭までは約15分で着く。

㊧大日堂、㊨登城道
大日堂は、松代城初代城主・真田信之(幸村の兄)の次女・泰子姫(見樹院) が如来をまつるお堂として寛文13年(1673)6月に建立。この大日堂の脇から登城するが、早速の急坂である。
 

登城道
大日堂から急坂を登ると、右手にこれまた真田信之の次女・見樹院開基の大善寺跡があり、 そこからいよいよ山道となる。道は岩だらけな急坂の上、落ち葉が幾重にも重なり兎に角滑りやすい。ひたすら登ること約15分、見上げると、 木々の間から信州特有の平べったい割石による布積みの石垣が見えてくる(^^)
 

主郭西側の石垣と腰曲輪?の石垣
ここに辿り着き、この見事な石垣にお目にかかり、疲れもすっかり吹き飛ぶ(^^)。尤も、 家内の膝の痛みはそういう訳にはいかなかったようだが・・・・・。

主郭西側の石垣
どうです。この高さ3mはある布積みの見事な石垣? 

主郭北西部の石垣
上写真から左(北)の方へ廻って見ると、木々に遮られて見えづらいものの、しっかり石垣が残っている。

主郭西側から南虎口にかけての石垣
こういうのを見ると、ついつい写真を何枚も撮ってしまうんです(汗)。右奥が虎口。

主郭南の虎口
虎口には「倉科氏の山城・鷲尾城跡」と書かれた碑が建ち、虎口を入ると説明板が設置されてる。

主郭①
東西28m、南北21mほどの不整楕円形で北側を除き、周囲を囲む石塁が残っている。

主郭②
主郭東側の石塁上から主郭を撮ったもの。西方面は眺望が開けている。

主郭からの西方面の眺望
今日は朝から靄でかかっていたが、先ほど登城した屋代城が眼下に見える。かなり近いことが分かる。

主郭南東部の石垣
主郭の南東部の石垣も良好に残っている。

主郭東側の石垣は・・・
主郭の東側の石垣は、かなり崩れ落ちているが、主郭周囲は総石垣で固められていたのがよく分かる。

主郭東側の二重堀切
主郭の東側は二重堀切で断ち切られている。主郭からの堀底まで深さは7mほどあり、 総幅は20mはあるだろう。ここにも石垣の破片が散乱している。これまた見応え充分な堀切である。

二ノ郭
二重堀切を渡り、二ノ郭へ・・・。主郭にある説明板には一郭脇曲輪としており、 ここまでを城域としているようだが、少なくとも最終的な城域は、この奥にある倉科将軍塚古墳や、 さらにその奥までを城域と考えるべきであろうと思うが・・・?ニノ郭は、この城の郭の中では最も狭く、東西28m、 南北12mの細長い郭である。

二ノ郭と将軍塚古墳の間を断ち切る三重堀切
この堀切は、幅や深さはそれほどでもないが、三重堀切になっている。スゴイ!

倉科将軍塚古墳へ
上写真の堀切を渡るとなだらかな傾斜になっており、そこに「倉科将軍塚古墳」 の標柱と説明板が設置されている。この上が前方後円墳の円墳である。

将軍塚古墳(三ノ郭)
円墳部分の上から方形部分を撮ったものである。かなり大きな古墳である。当然、 ここも郭として利用されたであろう。

三ノ郭と四ノ郭の間の堀切①
将軍塚古墳の方形部分を進んで行くと、大規模な堀切が見えてくる。

三ノ郭と四ノ郭の間の堀切②
この堀切は、深さは最大で約10m、天幅は約20mほどもある大規模なものである。さらに尾根幅が広いので、 非常に長く続いている。これだけ大規模な堀切は、なかなかお目にかかれないと思う。

四ノ郭
四ノ郭も細長く、奥の方が高くなっている。
 

四ノ郭の奥の堀切①
この堀切の向こうへ進んで行くと「鞍骨城」へと行けるということだが、次回に持ち越し。 少しだけ行ってみたが、ここからは冬近しとはいえ、少し藪になっていた。

四ノ郭の奥の堀切②
この堀切も大規模で、深さ5mほどあり、天幅も10m近くある。また、 この辺りも尾根幅が広いので長く続いている。以上、4つの堀切は全て見事なものであり、石垣とともに大いに満足した(^^)

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