喰い違い虎口に聳える萱の大木と旧城寺本堂
上杉憲清が築いたが、永享の乱で第4代鎌倉公方持氏に加担し自刃
別名
久保城
所在地
神奈川県横浜市緑区三保町2038、旧城寺
旧城寺:電話045-931-1435
寺の駐車場を拝借
形状
平山城
現状・遺構等
現状:旧城寺、墓地他
遺構等:郭、土塁、石碑(説明付き)、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2009/11/15
歴史等
榎下城(えのしたじょう)は、室町時代初期(1400年頃)に、上杉憲清によって築かれたと伝えられる。
憲清の子憲直が*永享の乱(1438)に足利持氏に加担して、
敗れて金沢称名寺で自決して以来、城主については不明である。
後北条氏の時代にも小机衆の拠る小机城に対して出城の役目を果たしていたとも考えられる。
その後、慶長年間(1596~1614)に、この地に旧城寺が開かれた。
『現地説明碑より』
【永享の乱】
鎌倉公方の初代は、足利尊氏の四男基氏で、以降、氏満、満兼、持氏と続く。持氏のとき、京都では5代将軍義量が亡くなった。
前の将軍義持には義量のほかに男子がなく、義持の弟4人は出家しており、将軍位が空位となった。
将軍位を狙った持氏は、義持に急接近をはかったが、相手にされず、将軍には結局義持の弟4人が「クジ引き」で決めることになり、青蓮院義円
(6代将軍義教)となった。
持氏は激怒し、将軍就任の祝賀会にも使者を送らず、年号が正長から永享に変っても新年号を用いないなど、幕府の指令は一切無視し、
将軍家との亀裂は決定的となった。そればかりか、持氏暴走を諫める関東管領上杉憲実とも対立するようになった。
永享10年(1438)憲実は身の危険を覚え、本国上野に逃れた。憲実は幕府に救援を求めると、将軍義教は大軍で鎌倉を攻めさせた。そして、
翌年2月持氏と子義久は自殺し、鎌倉府は4代90年余で壊滅した。
現況・登城記・感想等
榎下城(えのしたじょう)跡には、旧城寺が建ち、古くて立派な山門を入ると両側に萱の見事な巨木が聳えている。
その両側に土塁が残っており、喰い違い虎口になっているということだが、樹木が鬱蒼と生えているため分かり辛い。
本堂の建つ場所が二ノ郭で、裏手の一段高い場所が主郭で、その手前の墓地の辺りに空堀があったようだ。
また、麓から旧城寺へ登ってくる道は、当時の空堀で、今も複雑に折れている様子がわかる。
横浜市内の城址は、ほぼ壊滅状態であるが、その中で榎下城は全体的に城の形状が割り合いしっかりと保たれ、
比較的遺構がよく残る城といえるだろう。しかし、茅ヶ崎城を訪れたあとだったので、やはり物足りなさは否めない。
(2009/11/15訪れて)
ギャラリー
概観図(現地説明碑より)
喰い違い虎口
虎口にはカヤの大木が聳えている。その気で見れば、喰い違いになっている?
虎口西側の土塁
上写真手前側の土塁である。現物の土塁は写真よりは分かりやすいが・・・(汗)。
虎口東側土塁
東側土塁には、古くなった説明板、説明付きの城址碑のほかに、寺に関する碑や寺林の説明板、
そして墓などがたっている。
虎口東側土塁の樹木が少ない部分を
土塁は結構高く、約2mはあるだろう。
旧城寺本堂(二ノ郭跡)
主郭と空堀跡
説明板の絵図によると、一段高い場所が主郭跡で、手前には空堀があったようだ。今では、
どちらも墓地になっている。左上は往時の虎口ではありません。
空堀跡の道
麓から旧城寺へ登ってくる道は、当時の空堀で、今も複雑に折れている様子がわかる。車で登ってきたが、
車一台がやっと通れるほどの細い道で、その上幾度も折れ曲がる道で、対向車が来やしないかドキドキ?だった。