信濃 屋代城(千曲市)

三ノ郭から土塁と堀切越しに二ノ郭と主郭を見上げる

村上氏の代官・屋代氏の居城

別名

一重山城(ひとえやまじょう)

所在地

長野県千曲市屋代、一重山公園
【行き方】
しなの鉄道「屋代駅」のすぐ東側の山が城跡。屋代駅の北約500mにある踏み切り南東(県道392号線沿い)に登城口があり、 車三台ほどの駐車スペースがある。
尚、県立歴史館側や森将軍塚古墳側からも登れるそうだ。

形状

山城

現状・遺構等

現状:一重山公園(山林) 市指定史跡
遺構等:郭、土塁、石垣、土橋、堀切、竪堀、説明板、遺構案内板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2009/11/23

歴史等

屋代城は、15世紀後半代の応仁・文明の乱の頃、村上氏の代官として活躍した屋代氏が村上氏と結び、海野・井上氏と抗争し、 その必要性から屋代氏によって築かれたと考えられる。
天文22年(1553)4月に、村上義清の拠点葛尾城・ 孤落城(こらくじょう)が落ち、村上氏は塩田城に逃走した。
この戦乱の中で屋代氏は武田方に転身するとともに屋代城を去って、新たに与えられた荒砥城を拠点とすることとなり、 屋代城は廃城となったと推定される。
天正10年(1582)武田氏が滅亡すると、上杉景勝の軍門に下り、山浦(村上)景国を海津城将に、 屋代秀正はその副将に任命された。
しかし、同12年(1584)4月秀正は家康に内通して上杉方に背き、海津城を出て荒砥城に籠ったが、 上杉軍に攻められ落城し逃亡した。
以後、屋代氏は徳川氏の重臣として、安房国北条で1万石を与えられた。
屋代氏は戦国期において、村上氏・武田氏・上杉氏・徳川氏と次々に主人を替えた典型的な戦国武将といえる。
『「現地説明板」、「荒砥城二の郭再現兵舎内展示物」、「パンフレット」ほか参照』

現況・登城記・感想等

屋代城は一重山(ひとえやま)全域に城郭施設を設けた山城で、 南北に連続した12の曲輪間を堀切で断ち切り区切る典型的な中世の連郭式山城である。
主郭は最高所にあり東西23m南北34m、二ノ郭は主郭の北側の一段下にあり東西29m南北25mの削平地であるが、 他の多くの郭は削平が甘く、平らではない。
曲輪間の土塁や堀切、そしてその堀切から山裾へ落ちていっている竪堀は、規模はそれほど大きなものではないが、割り合い良好に残っている。
それよりも、屋代城跡は、しなの鉄道「屋代駅」のすぐ東にあり、周囲も宅地になっているのに、 二郭下で冬に備えてふさふさとした毛のカモシカに出逢ったのには驚くともに嬉しかった(^^)。
(2009/11/23登城して)

ギャラリー

登城口
県立歴史館側や森将軍塚古墳側からも登れるそうだが、私は北側の矢代神社下から登城した。多分、 こちらが大手口であろう。

矢代神社
尾根の北側中腹の結構広い削平地(郭)に矢代神社が鎮座している。矢代神社の額に「真田幸治」とあった。 多分、真田家12代当主・真田幸治氏の筆によるものなのであろう?
 

眺望
この神社からに限らず、屋代城址の多くの場所からの眺望は非常に良く、周囲の山城が見えるはずだが、 今日は11月後半にも関わらずポカポカ陽気で靄がかかっていて残念ながら・・・。

堀切
屋代神社の祠の裏の土壇上には石碑(城址碑ではない)が立ち、その裏に早速堀切が現れる。

堀切
上堀切を渡り、しばらく進むとまた堀切が・・・。㊧は手前から、 ㊨は堀底から山裾へ竪堀となって落ちていっているのを撮影。
 

御岳神社跡
上写真の堀切を渡り、さらに進むと「御岳神社跡」へと出る。 江戸時代数百年にわたり屋代地区の信者の信仰を集めた御岳神社であったが、昭和50年に北側麓近くに移されたという。尚、 この郭の手前にも堀切があったようで、郭手前左(東)側に竪堀が確認できる。

鞍部の削平地
御岳神社跡からは、尾根は一旦下がって鞍部になる。この鞍部はかなり広いが、 どういう役割を果たしていたのだろう?

堀切
鞍部の平坦地から南へ再度登って行くと、何筋もの堀切がある。中には、石垣の崩れたようなのも見受けられる。

三ノ郭の土塁と堀切
そして三ノ郭手前の堀切と土塁が現れる。この堀切と土塁はかなり良好に残り、 規模もそれなりに大きく見応えがある。

三ノ郭
三ノ郭へ上がると、正面に二ノ郭とその上に主郭が見えてくる。三ノ郭も、 それまでの郭と同様削平はあまく平らではない。この写真もそうだが、北側から南東に向かってくるので、朝早いこの時間は、 もろに逆光になり写真がうまく撮れないのが残念!

二ノ郭下でカモシカに出逢った
三ノ郭から二ノ郭へ向かって進んで行ったら、黒い動物が!カモシカだ~!冬に備えてか、 毛がふさふさとして太ってみえた。以前、鴫山城(福島県)でも見たことがあるが、その時は見かけるやいなや逃げられてしまったが、 このカモシカはしばらくこちらを窺うようにじっと見ていたので、何枚も写真を撮る事ができた。ラッキー!?

二ノ郭下の土塁
二ノ郭下には土塁と堀切がある。この土塁と堀切もかなり良好に残っている。正面上が二ノ郭で、 その上の土塁上が主郭である。

二ノ郭下の土塁と堀切(二ノ郭側から)

二ノ郭
二ノ郭は主郭の一段下にあり広さは東西29m南北25mで、それまでの郭と較べると平らだ。 正面のやや高い鉄塔が建っているところが主郭であるが、これまた強烈な逆光で・・・。

主郭
主郭は最高所にあり東西23m南北34mの広さがあり、二ノ郭と同様割り合い平らである。 ここに説明板が設置されている。主郭の向こう(南)は土砂採取の為に一気にに下っていくが、元々は郭が尾根上に連なっており、 全長は300mを越え、村上氏系の城では本城葛尾城に次ぐ大規模なものであったそうだが、 かなり破壊されてしまっているようで、一応少し下りていったが、その範囲内では遺構は確認できなかった。

トップページへ このページの先頭へ

コメント

(2011/09/07)

本郭に行く途中にある鞍部も、砕石場の跡で、城跡は破壊されています。子供の頃、そりで遊びました。

タクジロー(2011/09/10)

情報ありがとうございます。

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント