主郭への行く手に立ちはだかる巨岩
高梨氏支配地南部の防衛線か? 行く手を遮る巨岩の連続
別名
苅田古城、雁田大城(古城)
所在地
長野県上高井郡小布施町雁田(岩松院の裏山)
岩松院:小布施町雁田615、電話026-247-5504
形状
山城(標高520m、比高180m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:郭、石垣、虎口、堀切、竪堀、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2009/11/23
歴史等
小城(物見城)と一体で、苅田城(雁田城)と呼ばれる。東西30間半(約55m)、南北15間(約27m)、
周囲には空掘や用水を引いた樋跡が見られる。
築城年代、位置、名称等解明されていない部分も多く、伝説に満ちた謎の城といえよう。
古くはアイヌ人の城「チヤシ」あるいは大和朝廷の東征時(3~4世紀)に作られた柵(さ)という。また、東條庄狩田郷の領守職、
苅田式部太夫繁雅(元暦元年、1184年の文献あり)の居城と伝えられる。
室町時代の貞治6年(1367)萩野備後守常倫が築いた二十端城は、この苅田城を含んだものとも言われる。
史実からすると、豪族高梨氏との関りが深く、延徳元年(1489)以降はその支配が確定した。
永禄4年(1561)武田信玄が高井地方を支配下とするまでの間、苅田城、二十端城、滝ノ入城(千僧坊の北峰、雁田山頂786.7m)等は、
高梨氏支配地の南部における防衛線であったと推察される。
『現地説明板より』
説明板の中の「チャシ」はちょっと飛躍しすぎだと思うけど・・・? 北海道のチャシは、かなり見てきているけど、
これほど大掛かりなものは見たことがない。柵についてもなあ?
現況・登城記・感想等
葛飾北斎の天井画や福島正則の墓があることで有名な岩松院の裏(北東)の、蛸坊主のような異様な形をした山が苅田城(雁田城)である。
岩松院付近はもともと土豪の居館があったようで、苅田城はその詰の城として築城されたものであろう。
苅田大城へは、苅田小城から岩だらけで急傾斜の痩せ尾根を主郭まで約20分ひたすら登る。
特に傾斜が急なところにはロープが張られているが、幾重にも落ち葉が積もり、やたらと滑って危ないので、全ての箇所に張って欲しいほどだ。
途中、何箇所にも巨岩があり行く手を遮る。中でも、*
最後に現れる巨岩は攻め手を寄せ付けないほどのもので、まさにロッククライミングでよじ登って行く。おまけに私は、
登る岩の裂け目を間違えて、身の危険さえ感じたほどである。
この巨岩を過ぎ、最後の急坂を登ると堀切越しに主郭が見えてくる。堀切の幅は約9m、深さは主郭上から5mほどである。
主郭は、崩れてはいるものの石垣で囲まれていたようだ。広さは長さ約30m、幅約15mほどで、2段になっており、
段差の部分には石垣がある。また、主郭奥(東側)には土塁が確認できる。
主郭の東にも郭があり、その間も堀切で断ち切っている。堀切の深さは5mほどある。
主郭の東の郭もよく整備され、さらに奥へ下りて「滝の城」へと続いているようであったが、時計を見ると、午後3:50である。
登って来た道は危険である上、日も短い季節である。諦めて折り返すこととした。残念無念!
ここまでを見る限り、苅田大城の縄張は特に複雑な技法は取り入れられておらず、山頂部の主郭を中心に、いくつかの郭を堀切で断ち切るという、
単純な連郭式山城のようである。
尤も、城郭の西側に関しては、途轍もない天嶮の地でもあり、特別な工夫も要らなかったのだろうが・・・。
苅田大城は、私には城址遺構以上に、「恐怖のロッククライミング」が印象が残る城址であった(汗)
(2009/11/23登城して)
【*行く手に立ちはだかる巨岩】
何箇所かあった天然の関所(巨岩)は、自然の割れ目である隙間?をよじ登って行くが、最後の巨岩が最大の難関であった。
崖に張り付くように取り付けられた、朽ちかけたような細い木橋を渡ると、そこからはロープ伝いに急斜面を登るのである。
ところが、登り切ったところからは何処を登って行けば良いのか分からず、取り敢えず右側の裂け目の方を選び、1~2mほどよじ登ると、
その先は斜度80度ほど、高さ6~70cmほどの壁が・・・。
その壁の手前(自分のところから高さ1m弱ほど)に平たい石があり、まずはその上に乗ろうと思ったところが、よく見ると、
その石はただ乗っかっているだけで、自分が乗ったら落っこちそうなことに気が付いた。おまけに、この山の岩、
やたらとヒビが入っていて割れやすそうだ。
危うく乗るのをやめ、一旦戻ろうと下を見ると、岩肌でゴツゴツした垂直に近い崖は50~60mはありそうだ。
城めぐりをして、初めて身の危険を感じた(冷や汗)。
ここまでの1~2mを登るのでさえ、かなり危険だったのだ。恐怖に怯えながらも細心の注意をはらって、何とかロープの近くまで下りたものの、
先程の恐怖が収まらない。
ここから再度他の裂け目を何とか登って行ったところで、下山時も危ないし、ここで諦めて下山しようかと弱気の虫が頭をもたげた。
すると、左上の方に「大城→」という小さな案内板を見付けた(^^)
気を取り直して再度挑戦!!しかし、そちらも充分危険だった。
案内板、もう少し分かりやすいところに設置して欲しいものだ。
ギャラリー
苅田城全景と岩松院
岩松院の裏(北東)の山が苅田城である。岩松院はもともと土豪の居館であったようで、
苅田城はその詰の城として築城されたものであろう。
右の蛸坊主のような山が大城で、左端の少し起伏しているところが小城である。
大城は、ここから眺めても形は丸いが急峻な登城道であろうことが想像できる。
苅田小城東側の堀切から登る
苅田大城へは、苅田小城の東側の堀切を渡り、
岩だらけで急傾斜の痩せ尾根を主郭まで約20分ひたすら登っていくのである。
登城道①
堀切を渡り尾根へ出ると、早速、岩だらけの坂・・・。ここをひたすら登って行くのだ。
登城道②
さらに岩の数が増えてくる。こうなると尾根というよりも岩場だ・・・。
最初に現れる巨岩
㊧上写真の岩場を越えると、坂は一気に急傾斜になってくる。そして前方上に岩の塊のようなものが見えてくる。
㊨近づいて見ると。それはまさしく天然の関所である。写真で見ると傾斜が分かり辛いが結構急斜度で、そのためロープが張られている。
後ろに見えるのが山頂(主郭)。
さらに尾根を行く
㊧最初の巨岩を越えると、またまた岩場。
㊨そこを越えて行くと、益々急傾斜の岩だらけの道になる。
さらに岩だらけの急坂を登っていく
岩だらけの道は、さらに続く。岩を見ると、ほとんどの岩が板状にヒビが入っている。この山の岩(輝石・
安山岩)は熱を伝えにくく表面だけが熱を受けて膨張・収縮を繰り返し風化するために、玉ねぎ状に剥がれていくのだそうだ。
2番目に現れる巨岩
上写真の岩場を登ると、またまた巨岩が現れる。
崖に張り付く木橋
上写真の巨岩を越えると、目の前に、さらに巨大な岩が現れる。そこは勿論、
直登は出来ず岩の崖に張り付いたように取り付けられた、朽ちかけたような細い木橋を渡る。勿論、橋の下には何もない。しかも、
遥か50~60mほど下まで岩がゴツゴツした絶壁である。チョット気味悪い。
最後の関門(巨岩)
橋を渡ると、目の前には巨大な岩が立ちはだかる(;´Д`) 取り敢えずロープをつたって登ったが、
そこからは何処を登って行ったら良いのか分からない。取り敢えず、右側の裂け目を登っていった結果、先に述べた【行く手に立ちはだかる巨岩】
のような顛末が待っていた(冷や汗)
最後の急坂道
最後の巨岩を乗り越えると、いよいよ上の方に山頂(主郭)が見えてくる。最後の坂道も結構な急坂である。
ここまでも、ここからも、兎に角、落ち葉が幾重にも積もり、やたらと滑りやすい岩場だらけの坂は大変だった。
堀切越しに主郭を
主郭の手前(西)には堀切がある。主郭は、崩れてはいるものの石垣で囲まれていたようで、
石が埋まっていたり、転がっていたりする。
主郭西の堀切
堀切の幅は9m、深さは主郭上から5mほどである。堀切は、竪堀となって山裾へと落ちていっている。
主郭
主郭の広さは長さ30m、幅15mほどで、2段になっており、段差の部分には石垣がある。
上の段には東屋と古くて字が薄くなった説明板が建っている。ところが東屋の隅に新しい説明板が立てかけられていたが・・・?
主郭を上の段から
南側の段差部分(写真左)に大きな石で組まれた箇所がある。多分、虎口であろう。
主郭虎口
主郭南側の腰曲輪のような細い削平地から石の間を通って入っていける。
主郭奥(東)の土塁と堀切
主郭奥(東側)には土塁がある。その奥(東)には良好に残る堀切が主郭東の郭との間を断ち切っている。
堀切の深さは土塁上から5~6mほど、幅は7~8mほどである。この堀切も勿論、竪堀となって山裾へ落ちていっている。この堀切は、
なかなか見応え充分だ。
主郭奥(東)の郭
この写真は主郭東の土塁の上から撮ったものである。堀切の向こうに見える郭はかなり削平もしっかりしており、
結構広いようだ。恐らく、二ノ郭であろう。整備もよくされ、さらに奥へ下りて「滝の城」へと続いているようであったが、時計を見ると午後3:
50である。登って来た道は危険である上、日も短い季節である。諦めて折り返すこととした。残念無念!